色川武大「狂人日記」をおれは読みきることができるのだろうか?
というエントリーを書いてから約一ヶ月。色川武大「狂人日記」を再度読み終えた。
以下はその走り書きというか殴り書きみたいな覚書である。
2013年12月30日
理解しようと思って読むからいけないのだ。そう思う。
しかし自分にはそういった読み進め方しかできないのだ。
岩山を両手だけを使って這い進むように「狂人日記」を遅々たるも一度は読み終えたのだった。
そして、色川武大のことを書いたといわれている、伊集院静氏の自伝小説「いねむり先生」をkindleで読み、
実世界で色川武大氏のパートナーを20年間務めた色川孝子氏の、「宿六・色川武大」というエッセーを、古書で取り寄せて読んだ。
そうして、実際の色川氏のことを知ったようなふりをした上で、また、「狂人日記」を読み始めたのだった。
無論そんな読み方に意味など無い。
無粋な読み方だ、とも思う。
しかし自分はそんなアプローチしかできなかったのだ。
小説は、主人公の「キチガイ病院」への入院から始まる。
宇宙型の蜘蛛や、猿や、遠くて近い和太鼓の音や、幻聴や、自分の体から生えてくる死人や、自分を付け狙う蒸気機関車や、自分を殺しにくる小人のスペイン人たちや、いろんな幻覚と主人公は共生している。
やがて扉を通り、窓に黒いカーテンがかかった部屋の中央でとまる。そこには白衣の人たちが大勢居る。
自分はもがこうとするが身体が動かない。
長い金属の棒を組み合わせてできた機械や、鋭い錐が垂れさがった機械が眼に入る。
やがて一人が横に立ち、大きな鋏で夜具を切り裂き、ついでに小さな男根を握って二つに裂く。鋏はそのまま伸びて下腹部から胸に。何人かが皮を剥ぐようにし、しゃべり合いながら内蔵を一つずつ取りだして、椅子の上に順においていく。最後に腸を、消防のホースのようにまるめておく。内蔵たちは鋭い光沢を放ち、それぞれくたびれたように身動きしない。肝臓に、金蝿が一匹とまっている。一人の男が、こちらの胴体、つまり皮を持ち上げたりして何かを探している。他の人たちもいっせいに、くまなく点検し、中には顔までさわる奴がいる。それからガヤガヤしゃべりながらどこかへ行ってしまう。(p70-71・福武文庫版・1993/10/5第1刷より)
とまあこんなすごい感触と主人公は同棲しており、そこには発展もなくなんの必然もなく、他人もこんなこと共とともに寄り添って生きているのか、ただそれを出さないだけなのか、と、淡々と主人公は語るのだった。
吾妻ひでお氏の「失踪日記」や、最近の「アル中病棟(失踪日記2)」を読んでも、そんな幻覚との共存の一端を垣間見ることができるが、それを「解釈」しようと思うところで、もう、自分は「狂人」ではないんだなあ、「凡人」なんだと思わされる。
だからこの「狂人日記」に対する接し方は、やはり文学的興味でいいのだと、またまた自分に言い聞かせてはみるのだが・・。
小便のように涙が流れる。さほど哀しくもないのに。多分、涙を流した後、また少し気力が戻るのだろう。(p123)
園子が死んだ夜、あいかわらず無表情に静まり返っていた世界。
園子にも、園子が死んだことにもそうだけれど、園子が死んでも何の変化も見せない空の色なんかが納得できない。そういう実感は年月がたっても微動もしないで喉もとにひっかかっている。理屈とも関係ないし、現実とも一致しているわけでもない実感という奴は、ただそうやって閉鎖しておいておくよりしかたがない。
(略)
自分は、正気と狂気の間を行き交いながら、いつも自分の狂気のことを考える。正気についても考える。どちらについても明快な認識が得られない。ただ、両方を行き交う気配について鋭敏になるだけだ。そうして自分と他人の違いについても鋭敏になろうとする。(p134)
引用ばかりで申し訳ないが、こうやって印象に残ったところを打ち込んでいても、やはり核心からは離れていく一方だという忸怩とした思いもあることは確かだ。何もかもが意味があるわけではなく、何もかもが納得の上ではなく、それでも受容して日々は成り立っているというような当たり前のこと。それはたしかに理屈ではないが、さりとて実感でもなく。
この、以下の透き通るように美しい散文詩のような文章は、なんの関係もなく小説の中で出てきたのだった。
あまりにも美しいセンテンスたち。頭のなかに突然湧き上がるイメージ。
生きているものも死んでいるものもいつかおんなじ次元に居るようになる、これは歳を取ってくるにつれ、(正常人たる)自分にも了解可能になってきた認識でもあった。だから誰も死んじゃいないんだって認識。だから現実世界で自分のおふくろがいないことも、自分がやがて滅することも自分にとってはそんなには問題ではないんだ。
脇道にそれたので戻すけど、この美しく湧きいでる泉のようなイメージに、自分は宮沢賢治を重ねたりもしたのだった。例えば永訣の朝とか、クラムボン(宮沢賢治の「やまなし」)とか。
たくさんの人の声が耳の中できこえた。彼は沼の水を呑んでいたんだよ。彼は泥の中に入って溺死したんだ。彼とは誰のことかわからない。彼は自殺したんだよ、することがなかったから。彼は逃げたよ。死んじゃいないよ。彼は中毒死だよ。死体が変色していたって。彼は、とても医者を怖がっていたよ。(p147)
主人公は、病院で知り合った若い女と、外界での生活をはじめる。そして、幻覚か、夢か、リアルか、わからないものに喰いつかれ侵されながら、こう思うのだ。
どうしたらいいだろう。
自分は誰かとつながりたい。自分はそれこそ、人間に対するやさしい感情を失いたくない。(p179)
圭子と一緒にいるのが心苦しい。ほとんどまるごとの負担を彼女にかけながら、なおその上に自分の都合に沿ってくれる女を期待している。自分はいつか彼女に捨てられるだろう。
自分はわがままで身勝手で、病者というより欠陥者だ。人に甘えることを知らずに過ごしてきたような実感があるが、とんでもない。絶えず人に頼らねば生きてこれなかった。弟に頼り、女に頼った。それがあるものだから、自分の主張や望みをストレートに出せない。
自分は生きるに値しない。それを記せば実も蓋もない、のだから嫌になる。生きるに値いしないが、生きないわけにもいかない。医者のいうとおり、病院は休むところだった。生きるに値いしないということを、しばし忘れさせてくれた。
ところが、結局、休んでいたくもないのだ。何とかして自分も生きたいのだ。弟や圭子を喰ってでも。
医者はどちらかに態度を定めろという。まことにもっともだけれど、それは他人の言い草で、どちらに徹しても、自分としては元も子もないようなものを放棄することになる。で、一方で心苦しさが増し、一方で欲求不満も増す、そのはざまのところであえいでいるほかはない。
自分をそういうところに追い込んだ犯人は、病気か。さて、それはどうだろう。卵が先か、鶏が先か。(p235-236)
そして、物語は終末を迎える。一切喰わずに死のうと決意する主人公。たくさんの人や獣が現れる。死んだ父親や、幼いころの街の人々や、死んでしまった犬も。彼らはただあわただしげに歩いているだけだ。そして同棲している彼女の叫びはもはや現実か幻かわからない。和太鼓の音が近づいてくる。
「いつ頃からか、はっきりいえないがね。人間というやつは、とことん、わかりあえないと思っちゃったよ。服装や言葉や生活様式や顔つきまで似てくれば似るほどに、似ても似つかない小さな部分が目立ってきて、まずいことに、皆、その部分を主張して生きざるをえないものだから、お互いに不通になっちゃう。病気になって、はじめて病人のことがわかったかと思ったが、これが全然わからない。多少わかるのは俺の状態だけだ」(p260)
ああ、終わってしまったよ。
書けば書くほど、引用すればするほど、指の隙間からボロボロとなにものかがこぼれ落ちてゆく。
リアルワールドの色川武大氏はこの作品で、1988年に「読売文学賞」を受賞し、その2ヶ月後の4月10日に心臓破裂で亡くなられた。
色川孝子氏の夢枕には、オレは天国にいるんだ、と現れたらしいけど・・。
果たしておれはまた「狂人日記」を読むだろうか?わからない。
ただ言えるのは、幾度、犬が臭いをかぐかのごとく周辺を巡ってみても、どこにも辿りつけないということだ。
すべての問いは「狂人日記」の中にしかないからだ。
そしてどこにも答えなどないのだ。
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