なぜか月一回の日赤カンファレンスも失念してしまっていたし、ホントに頭のどこからも欠落していたのだ。こんなこと開業して14年ではじめてだ。
頭のなかでドロドロと分けのわからないものがとぐろを巻いている。その蛇は鎌首をもたげて、赤い舌をちろちろさせながら、いつでもおれに喰い付けるようにおれを上目づかいで見ている。そりゃあ蛇に上目づかいがあるのかと言われたらわからんけど。そんな感じ。
3月は去るというがまったくそのとおりだ。
知らぬ間に花はほころび、春が満ちている。だが人間がそう簡単に変われるのかというとそんなことはないわけで、だから毎日Sit!を重ねながら一歩でも前に進もうとする。そのより前に出ようとする意思だけが、自分を支えているのかもしれない。「鋼の錬金術師」の人造人間に、「強欲」という名前のもいたっけ。でも自分が「欲望」を失ったら、多分呆けていって崩壊が始まるだろう、精神も肉体も。
鳥越俊太郎さんは、著名なジャーナリストだ。
大腸がんと何度かの転移を乗り越えて、今もなおアクティブに生きられておられる。
彼の食生活はなんと1日1400-1500calで、朝は、ジャコと豆腐・豆乳ヨーグルト・紅茶、昼は抜き、夕食は刺身とかサラダとか煮魚で、ご飯は食べないとのことだ。そして運動は週3回ジムで。
自分も以前と比べたら随分ストイックになったつもりだが、やはり煩悩を払拭することはできない。
炭水化物制限ダイエットも随分怪しくなってきたしなぁ(ビールは乾杯だけにしてますよ)。
まあ、煩悩があるから生きてる人間だとも言えるんだけど。欲望の垂れ流しはいけません。
その混迷の今週だが、頭のなかで、「WatermelonMan」が鳴り響いている。
ハービー・ハンコックのデビュー・アルバムに収録されており、ジャズの名曲だそうだ。
以前も書いたけど、自分はジャズにはホント疎くって、だから、こんな古典的名曲もホントに素直にsense of wonderをもって接することができる。それはちょっとお得な感じだ。
スイカ売りの声を元にこの楽曲は作られたそうだが、脳内スイカ売りが、天秤ばかりにスイカを担いで、なぜかストリートをスケボーで駆け巡っている光景が脳内劇場で再生される。彼はベトナムの農民のようなスゲガサをかぶり、その目の光は実はとても鋭い。ウォーターメロンマンはどこにでもいるぜ、お前さんの隣にもな、いいか油断するんじゃないぞ、おれはいつもお前を見ている。そんなフレーズだ。
松山ケンイチ氏の手による「敗者」を読了する。
これはNHK大河ドラマ「平清盛」出演の1年にそって書き綴られたエッセイだ。
「平清盛」が低視聴率だったから「敗者」なのではない。
マツケンにとって、自分の役者人生の中で、ある歴史上の人物の一生を最後まで演じるのは多分はじめての経験だったろうと思う。
子供時代の「平太」から、死ぬまでの剃髪姿の清盛まで。
「敗者」という言葉は、それをたったの1年で演じたが十二分に演じきれなかっただろうマツケンからの、逆説的なメッセージなんだろうと受け取った。
それにしても彼の文章は非常に清らかであり、欺瞞がない。
この男が演技者として、まだまだ高みに登っていかんことを一ファンとして祈らずにはおれない。
自分にとっても「清盛」のドラマは、なんだか他人事ではないドラマだった。
一度50歳で死の淵をさまよった清盛が、再生して、そのあとでようやく手に入れた「武士の世の頂点」が、もはや武士の望んでいるものではなかったということ、それは清盛自身がもはや以前の武士ではなかったからで、全国では打倒平家ののろしが見え隠れし始めている、朝廷からも平家を疎んずる声が出ている、そんな皮肉。
そして、滅びてゆくだろう平家の行く先を知りながらも自らは死ななければならないというジレンマ。
「まだ武士の世は出来ていない。わしがおらねば武士の世など出来ぬ」
熱病で63歳で死んだのに生霊になって現れ、そう言う清盛に、西行はこんなふうに語るのだ。
「皆そうだ。清盛に思いを託した者たちもみなそのように思いながら死んでいったのではないか」と。
そして、その言葉を聞いて、清盛は、もう敗けてもいいのだ、と、悟る。
そうやって、ひとつの命が滅しても志は水脈の下でも引き継がれてゆくのだ・・
だた、自分が死ぬ時が来て、そんなふうに感じたりできるのだろうか?
まったく先は不透明だけど、そんな景色に出会えればなんて素敵なんだろうと思った。
とにもかくにも、生きてゆくということは、なんと難しく、そして楽しいのだろう。
だから、まだ、生きてゆく。
【蛇足】あとがきより引用
父になってみて、成功か失敗かということよりも、本気か本気でないかの方が大事だと確信できたことは、自分にとっても大きな変化だった。
【蛇足その2】