「20世紀少年」を再読した。何回目だろう?
ともだちに扮した**くんが、自分こそが「20世紀少年なんだ!」というシーンが最後らへんに出てくる。
ケンヂもオッチョもある意味では同様に20世紀少年だったんだろう。
でも、このマンガ、「20世紀少年」が22冊で終わり、
話は続いているのに、最後の2冊は「21世紀少年」(上)(下)になっている。
ここで、ケンヂはバーチャル・アトラクションの世界ではあるものの、過去に軌道修正を加えようとする。
なにかをやりなおそうとするのだ。
その時点で、だから、ケンヂは自分の中の「20世紀少年」と訣別したのだと思う。
自分自身のことに戻ると、
「遊星仮面」や「マグマ大使」「宇宙少年ソラン」「W3」「8マン」や「スーパージェッター」の幼年期、
「ウルトラマン」とか「モロボシ・ダン=ウルトラセブン」の少年期前半、
マンガで強制的に割り込んできた「巨人の星」の世界はどちらかと言えば大人のほうが好んでいたような気さえする(残念ながら「あしたのジョー」ももっと年上の熱狂だった)、
自分たちは「仮面ライダー」とか「マジンガーZ」や、アニメ版の方の「デビルマン」のほうがフレンドリーだった。
(「ハレンチ学園」は確か小学校デイズにスカートめくりを教えてくれたが、その裏にある永井豪スピリットの凄さにはまだ子どもたちは誰も気づいていなかった)、
そして、自分の人生を決定づけるようなマンガ「デビルマン」との出会い、
だから、自分の中でのパーソナル・アニメは「宇宙戦艦ヤマト」がラストだったような気がする。
そのうち自分は、かぐや姫の「神田川」みたいな世界に傾倒していって、ケンヂのようにディランを信奉する意味などなにもなく、フォークギターを手にするようになる。
ヒトを信じ、そのヒトのために涙していれば、必ず想いは報われ、明日はまたやってくるのだ・・
という「理由もない」オプティミズムに一方では取り憑かれながらも、
人間の本性は「悪」なので、人類そのものが救われることなんてないんだとうそぶいていた。
たぶんどっちもホントの自分なんだろうけど。
自分と、ケンヂ(作者の浦沢先生)の世代は確かにかぶっている。
月面着陸も、大阪万博もあった。
でも三島由紀夫の自決も、浅間山山荘や、テルアビブ乱射事件だってあった。
未来は必ずしも輝いているわけではなかったんだ。
だから、自分は昭和の人間なんだなあと思うことはあっても、「20世紀少年」だとはあまり思えない。
なぜなら、幼少期、残念ながら、自分はバラ色の未来を夢想することができなかったからだ。
だから、ケンヂのように沸騰することもなく、
灰色の70年台をやり過ごし、
バブルの時期はせっせとなりたての「医師」の仕事に精を出し、
今、ようやく、レアな自分を作ってくる「根源(ルーツ?)」と再び向かい合うことができるような気がしている。
たとえそれが錯覚だったとしてもいい。
なんどでもやり直せばいいのだから。
もう(人生の)残り時間がなかったとしても、それはそれで仕方ないことでもあるし。
そう、自分を形作ってきたものどもは、ほぼ10代から20代前半の中にある。
以前坂本龍一さんもおんなじようなことを言ってたが、全くそのとおりだ。
オレはその古い革袋をあけてその袋にこびりついた匂いを嗅ぎ、またそこで熟成された何かをいまさらのように感じて驚いて、
そこにできうるだけあたらしい酒を注いでいく作業を続けている。
それを人生と呼ぶなら呼んでもいい。