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- 2014.04.04 Friday
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思い出しました。思い出して、鼻を鳴らしました。
思い出してみればやはり取るに足りない小さな答えだったからです。
しかし胸を締めつけた幸福の余韻はいまも身体のどこかに残っていて、その答えとともにすこしずつ蘇ってきて、 自然と頬をゆるませます。
死ぬ前に、一番したいことは何か、こんな質問に対して答えを出せるというのはもともと死ぬつもりな どないのでしょう。 したいことがある以上は生き続けるしかないからです。
このさき生きていく上でいちばんしたいことは何か、いまいちなんしたいことは何か、 そう訊ねるのと同じ意味の質問になるからです。 そのことに気づいて自然に笑えたのかもしれません。
一文無しでも、一人ぼっちでも、変人としてでも、生きるつもりだから腹が減り喉が渇くのだと思いました。 生きるつもりだからこそ必死で屋根によじ登り、 失神すまいと踏ん張っているのだと思いました。
鼻を鳴らしたくなるほど取るに足りない答えでも、その答えが現にあるというのは喜ばしいことでした。 煉瓦をしっかりと両手で掴み、身を乗り出しました。
(講談社版、p253-254)
2002/11/15
なんか最近あわただしいといった感じの忙しさが続いている。
どうしてだろう?俺の要領が悪いのか?
佐藤正午の『ジャンプ』という小説は、コンビニにリンゴを買いにゆくといって消えたガールフレンドと取 り残された僕の5年間の物語である。 ミステリとして絶賛されたという話だが、 僕は全然そんな風には思わなかった。
これはミステリではなく、紛れもなく優柔不断でやさしくって冷たくって少しシニカルな佐藤 正午のいつもの話なのだ、と。主人公に、 ああ俺ってこんな優柔不断できたねえ野郎だなと、 フムフムとうなづくことはできても共感はできない。 だから書評とか読むと、 怒ってる女の人たちもいたりするのだろう。 でもそれが佐藤正午のいいところなのだ。
それで、1991年に書かれた『放蕩記』を、自宅の本棚の奥から引っ張り出してきて読むことにした。 自伝風に作った、 これまた佐藤正午という他人との微妙なディスタンスをともってし か生きてゆけない男の物語で、 この人の作風というものは変わっていないな、と、再認識した。
で、そう考えると、僕も佐藤正午とつかず離れず共に生きてきた人間なのかもしれない 。
君が好きだといいながら平気で二股をかけるような男。お酒に酔ったときだけ笑う男。 いつもは怒っているくせにここぞとばかりに下ネタをいう男。 誰も信じられず自分のことも信用してないくせに、 人に嫌われたり悪口を言われることを人一倍気にかけている男。
決していい読者とはいえないけれど。
『永遠の1/2』『リボルバー』『スペインの雨』『ビコーズ』・・うーん、僕は彼のどこが好きなんだろうか?
彼の書く男たちはつきまとって離れない影のように僕の中にいるのだろう。僕自身と相似形でないにせよ。
『タマネギ刻むと涙が出るじゃない。泣きたいときはタマネギ刻みなさい、泣けない訳があるときはね、 それが人生の知恵、悲しい知恵。』
『三百六十日、日日(にちにち)酔うて泥の如し』(放蕩記より)
そして僕もバーボンを飲んで眠りに落ちる。
・・もう給料の計算をせねばならない。
ということはもうすぐボーナスの支払いで、今年はほんとに頭が痛い。 来年の冬は余裕で笑っていられることを願うのみである。