古典的な夜の殺し方
加藤和彦の唄に、「優しい夜の過ごし方」なんてぇのがあったような気がする。
古典的な夜の過ごし方(殺し方)は、やっぱりお酒で自分を潰すってことだろうかな。
お酒飲んで、ヨタ言い合って、忘れてしまって、また会った時にその片鱗を思い出して笑い合う。
寂しいながらも二歩後退して一歩前進。
時と場合によっては関係が限りなく険悪になって途切れることだってある。
まあその時は寂しく笑って心のなかで泣いて、また酒をあおるだけのことだ。
通じ合うものがあればまたどこかでつながることだってあらあな。
寺山修司は言った、サヨナラだけが人生だ。
ほらほら、死んだヒトの身体が灰になって、煙になって立ち上ってくのが見えるだろう。
そんな進歩のないことを何十年も繰り返してる自分だ。
なんて非生産的なんだ、と、誰かにえらく罵倒されたな。
そんな馬鹿げたことに時間と金を費やして、そして回りにいる人たちに迷惑をかけて、ホントにしょうもない、ニンゲンのクズだ、とまで言われた。
まったくそのとおりだろうとは思う。
今の若い人達は概してお酒のまない傾向にある。
年寄りのおれがそいつを嘆いてもしょうがないんだけど、彼らは自分の殻を逸脱することを恐れてるんじゃないんだろうかって思うことさえある。
(これってお酒飲む飲まないの話じゃホントはないし、こんなことジジイのただの杞憂ですむといいんだけど・・)
自分が自分でなくなるのにお酒の力を借りる自分もほめられたもんじゃないが、
自分が自分を超える瞬間っていうのが、
なんていうのかな、あるだろう。
それはある瞬間「奇跡」のように訪れるんだ。
たとえばそれは、自分でチケット買って臨んだコンサートの終盤とか、
映画館でのあの暗がりでの2時間の中とか、
長い小説をコツコツ読んでいった中とか、
炎天下の中を歩き続けてもうだめだと思った先の空の色とか、
いろんなモノの中にそいつは急に現れるんだ。
そんなもんが、
そんな奇跡にも似たような一瞬が、
たとえちっぽけな自分にまた帰るとしても、ニンゲンには必要jなんじゃないのかって思うんだよ。
そして一番手っ取り早いそんなわけのわからん原初的な衝動のかけらが、酒の中に潜んでいるんだという古典的な幻想を、やっぱりおいらは今でも抱いてるんだろう。
お酒に酔って、過ごす時間の中に、そんなパッションが潜んでいる時もあるんだよ
・・いつもいつもじゃないんだ、でもそれはある瞬間訪れて、オレを高みに連れて行ってくれるんだ、たとえ後悔と頭痛の翌朝が待ってるとしてもね。
だから「古典的な夜の殺し方」なんだけどね。
そんなものがなんか欲しいんだよ。
そう、喉から手が出るほど欲しいんだ!
でも、それを若い奴らにお前らそんなもんもっと持てよとか押し付けるのはきっと大きなお世話で、
彼らはきっと言うんだろうな。
あんたらロートルみたいに、馬鹿げたアルコールなんて古典的かつ不健康なものに頼らなくっても、ボクラはボクラのsomething見つけてるんですよ、って。
そう言われるとそれまでなのではあるけれど、
でもなんだか、もっとはじけろよ、もっと喚けよ、もっと叫べよ、もっと泣けよ、とかおじさんは思ったりするわけです。
いや、今は、酒飲んだからってそんなに他人さまに迷惑かけてはないですよ。
酒はまさしくスピリット(ジンとかそんな酒のことをそう呼んだりもする)なんだけど、だからこそ、そのスピリット(精神性)が好きなんだよ。
こうやって二日酔いの一日を振り返って書いてみた文章は、そのまんま自己弁護かもしれないけど、まあ残しときます。
写真はFB友達でもあるpirokichiさんの。