書き終えられなかった幾つもの物語がある。
永井豪の『デビルマン』はあれだけ凝縮されたからこそあのエンディングを迎えることができ、今も生き続けているんだろう。
うまく収斂せぬまま息絶えた物語、それさえも許されずだらだら続いている物語。
世の中には後者のような物語のほうが多いのかもしれない。
例えば、栗本薫が生きていて、書かれるだろう『グイン・サーガ』の結末を、自分は、では望んだろうかといえば、正直、嘘になる。
天上界に乗り込んだアダルト・ウルフガイこと『犬神明』氏の話を読みたいかというと複雑だ。
物語でさえそうだ。
人生の終末はドラマのようにいかず、
ぷつんと断線するかフェイドアウトして終わることが多い。日々の診療の中、自分のもとをいつしか訪れなくなったじいちゃんのことなんて、すぐに頭の中から追い出されてしまう。
そんなある朝開いた新聞の<お悔やみ欄>の符号が、なにか頭の記憶の欠落の1ピースと合致するような気がする。
電子カルテをめくり最終来院日を確認する。
ああ、そういえばあのじいちゃん2年前から来てないんだなあ・・。
自分が浦島太郎にでもなったような気分だ。
つい先日まで、じいさんは脚を引きずって、そのドアから入ってきて、いつものひとくさりの文句言ってにたっと笑って帰ってった、そんな気がしてるんだから・・。
そんなこと、何度も何度も繰り返してきた。
自分の営みはなんなんだろうか。
あのじいちゃんはよもよも言うとったけど、うちの病院来れんようになってどうしたんだろうな。
バルーンでも入れられてたのかな、おむつになったのかな。
QOLとかADLっていうけど、あれって、やっぱりpositive thinkingなコトバなんだよなあ・・とその時実感する。
食べれないし誤嚥繰り返すから胃瘻を入れよう、
褥瘡を予防するための体位変換とエアマットを家庭で導入しましょう、
拘縮を防ぐために在宅リハビリをしますんで訪問看護指示書をお願いします。
自分にも今までも書きかけで途切れた物語がいくつもあるし、これからだってそいつらは増えてゆくだろう。
彼らは彼らの物語を書いた。
その整合性など誰にもわからないのだ。そしてそれを人生と呼ぶのだ。それでいい。それ以上でもそれ以下でもなく。
オレの評論なんて入り込む余地なんてどこにもない。
そんな簡単なことにも、わかったつもりになってるくせに、心の奥底では気付けないままの自分に、また気付かされるのだ。
『詩や小説を書くという仕事は、ジャングルでケーブルを守った仕事とよく似ている。
物書きも通信兵もだれにも知られず、ひそかに、たった一人で任務を遂行する。
しかし、一人でやっているように見える仕事は、どこか遠くで、たくさんの人々とつながっている。
そう信じることだけが日々の支えとなるんだ』
そう、元ゲリラ兵のベトナム詩人は亀を料理してくれ、別れ際に語ったという。(吉岡忍『まるでおとぎ話のように』より1997)
いまだって、自分のしてることの意味なんてわからない。
普通の人と比較して、ちょっと病気の行く末についての知識が豊富なだけのことだ。
ただ、自分は、自分に与えられた仕事を、自分の分としてこなし、
それが、離れたりくっついたりしながらも、最終的には世の中の『いろんなもの』につながっているんだ、と、そう信じたいじゃないか。