Quoted from: http://antichocolatofobica.tumblr.com/post/31863799
ララ・ハリスの肖像
1.
彼女は待ち合わせの場所に一人っきりでやってきた。
タクシーで乗り付けるでもなく、いつの間にか僕の背後に立っていた。
肩を叩くでもなく、かすかな香りがした時には既に彼女の声に包みこまれている。
「さあ、行きましょう」
振り返ると、もう彼女はきびすを返している。
それと同時に、アップされた彼女の長い黒髪の先端が、虚空に半円を描くのが見えた。
髪は、頭頂部で束ねられており、その部分を横断するように長いステンレスの串状のアクセサリが伸び、それから先はパイナップルの房みたいに拡がっている。
黒いミンクのコートは太股のあたりまでスリットが入っており、そこから白い肌と膝上までのブーツがのぞく。
ブーツはくすんだグリーンだ。もちろんヒールは高い。
僕の身長は、176.5cmだが、彼女はその僕を少し上空から見下ろすようにしゃべる。
そして、それは決して不快な気分ではない。
2.
彼女はバレエのプリマドンナだった。
とある地方雑誌の取材で知り合った。
僕はカメラマンの卵で、ひとまわり以上年上の女に金を出してもらいながら、撮影助手をしていた。
モデルの汗を拭ったり、レフ版を構えたり、床を磨いたり、光量を測ったり、時には先生のしょうもない冗談に、シンバルを叩き続けるサルみたいにエンドレスで笑い続ける。
そんな仕事だ。
何度か、劇場の楽屋とか、講演会の懇親会で彼女の姿を見た。
もちろんこちらは重い荷物を持って落ち着きなくあっちへ走りこっちで喚き、といった調子なので、ゆっくり声をかける暇もなく、それ以前に声をかけられる立場でもなかった。
とあるモダンダンスの舞台稽古のラフ写真を任され、冷や汗ものでステージの隅から何千枚もシャッターを切り、
デジタルとはいえその節操のなさに嫌気がさし、自動販売機の前でため息をついていたとき、やはり、かすかな香りとともに彼女の声が、既に気づいたときにはそこにあったのだった。
「お久しぶりです。今度ちょっとした集いがあるの。ごく内輪のショーなんだけど、よろしかったらご一緒しませんか?」
「えっ」
「そこのクラブのOBなのよ、わたし」
そういって彼女は、完璧にはずれたキーで、有名なミュージカルのテーマソングを口ずさむ。
「私ね、音痴でしょ。だからよそ様の前ではなるべくしゃべらない唄わないようにしてるの。
でもあなたがステージ袖で悪戦苦闘してるの見てるとね、ああ私はこの人の前で自分の声を聞かせなくっちゃいけないんだって気分になるのよね、どうしてかしら」
それはこちらが聞きたいことだった。
3.
とにかくそういうわけで、僕は、なけなしの一万円札を数枚、タンスの奥から取り出し、ポケットにねじ込み、その感触を味わいながらこうやって歩いている。
何本か路地を曲がり、迷路のようなビルとビルの谷間を過ぎ、細いらせん階段をいったん地下2Fに下る。
そこからエレベーターで25階に上った。
エレベーターの扉が開くと既に劇場空間だ。
暗幕が張られ、十数脚の細いパイプ製の折り畳み椅子がまあまあ等間隔で並べられている。
もっとも、エレベーターの光から闇の部屋に放り出され、彼女に手を取られ、席について数分たって、闇に目が慣れてきて始めてそれがわかったのだが。
さらにしばらく時間が経過すると、周囲にも座っている客が何組かいるのがわかった。
ステージは観客席から数十センチの高さにあった。
「ほら、あそこにいるのはこないだ離婚した人、あれはカンヌでグランプリを取った監督、それから・・」
彼女は闇のせいか饒舌に周囲の解説を始めた。
どうしてそんな有名人たちの中に僕がいるんだろう。どうして彼女は僕をここに連れてきたんだろう。
ただの気まぐれなのか。それとも僕のことが気に入っているのか。いや、しかし。
僕の思考はぐるぐる同じところを回り続ける。
4.
ショーは前触れもなく唐突に始まった。
舞台にピンスポットが当てられると、ステージ上には分娩台のような物が置かれているのがわかった。
そこに後ろ手を針金ののような物で結わえられて両足を軽くくくられた初老の男が素っ裸でいる。
男は痩せている。
呼吸が激しいせいだろう、あばらから外腹斜筋への陰影が、さざ波を思い起こさせる。
多量の発汗をしているのは何らかのドーピングのせいなのかもしれない。
男は目隠しされており、短く刈り込まれた髪は真っ白だ。陰毛にも白い物がちらほら混じっている。
口にはゴルフボールに小孔をたくさん開けたような拘束具が咬まされており、そこから漏れる声は、ひーとかあーとかしか聞こえない。
目はシルクの布で目隠しされている。
男のペニスは細く長くしなやかだ。しなだれているが20センチ以上はありそうだ。
鰐皮のブーツにボンテージの女はラバーマスクをしている。
目と鼻のみがわかるが、その上からでも、女が醜いことだけはわかる。
女王は、細く先端の分かれた鞭で男の鎖骨から乳首にかけて、左右交互に打ってゆく。
鞭がプレイ用の物でないことは男の呻き声とみみず腫れの残る皮膚でわかる。
男の胸から鞭で打たれたあとの血の斑点が浮かびだし、毛玉みたいに膨れ上がり、やがて脇を伝って、椅子の角から床に落ち、シミを作る。
血のプールは少しずつ大きくなってゆく。
能のように舞いながら、女は次の動作に入る。
男の太股を打ち、足の裏を打つ。
足の裏を打たれるのがもっとも疼痛は激しい、と、何かの雑誌に書いてあったのを思い出す。
単なるSMショーではないようだ。
舞台下手から、ブラック・タキシードの若い男が、うやうやしく黄金の盆に載せた電極を持ってくる。
男の髪はぴっちりバックにセットされている。
女王の前にひざまずき、盆を載せた両手を差し出す。
女王は盆の上に置かれた、細い針を手に取る。わざとらしく三角に尖った舌で針を舐める。
シルクの布で覆われ何も見えないはずの男の首が大きく揺れる。
男は背もたれに後頭部を激しく打ち付け、ボールの横脇からよだれが垂れる。
女王が魚の姿焼きに使うよりもっと細い針電極を男のアヌスの両サイド数センチの部位に深々と差し込んだのだ。電極の長さは30センチ以上ある。
その皮膚から出た部分に鰐口のクリップをとめ、女は、フットスイッチを踊りながら踏む。
電流が流れる。
照明が落ち、舞台そのものが深海の底のような深いブルーと、白い泡の照明で満たされる。
「今までで一番恥ずかしかったことは?」
男の背後の壁に、100インチほどの映像が浮かび上がり、そこにそういったテロップが流れる。
男の脳裏のイメージだろうか。
さまざまな映像がフラッシュバックのように流れ始める。
豚のペニス。犬の交尾。サルの細く長いペニス。鰐の甲羅から突き出たペニス。亀の産卵。亀の目の涙。砂の中の卵。砂漠の風紋。シロナガス鯨の潮吹き。海面から垂直に出た尾びれ。
男の呻き声が高まり、女王はフットスイッチを踏み続ける。
電流のボルテージが上がり、男の屹立したペニスから、精液がミルクのように飛び出す。
屹立したペニスは獰猛な獣のように、天井に向かって精液を放出し続ける。
静脈が何本も表面に浮かび出た巨大なペニスは血を流し苦悶を続ける男とは別物に見える。
「誰が出していいといったの、ゲス野郎!」
女王は、鰐皮のブーツの踵の突起で男の脇腹を蹴る。
肋骨が砕ける不快な音がする。
どこかにスピーカーが据え付けられているだろう。その音は増幅されてホール内を残響効果を持って駆けめぐる。
ブーゲンビリアの花。珊瑚礁。雲一つない紺碧の空をジェット流を残しながら過ぎてゆく戦闘機。すごい速度で移動してゆく積乱雲。拡大されたヴァギナ。ひまわり畑が一斉に風にそよぐ。空を舞うタンポポの種子。地面では腐りかけたバナナの輪切りのアップに蟻がたかっている。
男の首ががくんとのけぞり、精液がまた放出される。
男の心拍数が増幅されてホールを埋め尽くし、そこに低い男の声がフェードインする。
雨のように血が皮膚に細い筋をかき、台を伝って垂れてゆく。
血のプールはじわじわと拡がってゆく。
「胎児の夢。お前はここにはいない。」
女のおっぱいは垂れ下がっている。
干しぶどうのような乳首。しわくちゃのおっぱい。
もう片方は醜くひきつれてえぐれている。乳癌で摘出を受けたのだ。
ほらみてごらん。女の顔は見えない。
女の真っ赤な口紅が笑う。肌はでこぼこで、うごめく唇に塗りたくられた口紅はところどころ剥げかかっている。
これがおっぱいだよ。さあ、あんたを産んだ女のこのえぐれた乳を吸いな。
両手が男の顔を押さえ、えぐれたかつておっぱいのあった場所に押しつけられる。
男の呻きが激しくなる。
男の屹立したペニスがまたびくんと揺れて精液を放出する。
女王は汗を拭い取るようにラバーマスクを取る。
マスクを脱ぐ時、女の皮膚が一緒に剥けるような気がする。
女の顔は予想通りだ。
やはり醜い。
顔を構成するのに必要な何かが欠けているのだ。
束ねた髪を下ろし、首をリズミカルに振り、分娩台に近寄り、女は男の目隠しをとる。
男の瞳孔は散大している。瞳孔は薄いブルーだ。
声は流れつづけている。低い男の声だ。音楽が被さる。
心拍・呻き・声・音楽・照明・映像・螺旋・息・汗・血のプール。
全てが沸騰し、一瞬にして凍り付く。
そうだ、この音は。60年代最後を飾りバスタブで一人で死んでいったロックスター、ジム・モリソンの詩の朗読をもとに作られた『アメリカン・プレーヤー』だ。
呪文のようにモリソンの声が脳みそに浸透してゆき、映像が切り替わる。
夜明けのハイウエイで、大勢のインディアンを乗せた幌付きのトラックが横転した。ハイウエイの傍らで仰向けになって死んでいる者、砂漠に腰掛けて額からの血をボロ切れでおさえている者、抱き合ってすすり泣いている者達。そして死んだインディアンの魂は空に放たれた。目覚めよ。砂漠を長い長い1マイル以上ある蛇が横断している。よく見るとそれは大いなる抜け殻だ。目を開けることができない。顔を覆え。砂嵐が吹き抜けるぞ。目を閉じろ。お前の中の蛇を見ろ。蛇は大きな口を開けた。舌は青白く燃えている。蛇の鱗が逆立つのを見たか。砂嵐が吹き抜けると薄い皮でできた抜け殻はぼろぼろになって大気中に蛾の鱗粉のように放たれる。蛇はどこにいった。インディアンはいない。蛇もいない。魂の行方は。目覚めよ。心拍数は上がり、女王は鞭を連打し続ける。レインボーの光。
僕の意識がホワイトアウトする前に知覚したのは、後ろ手の針金を引きちぎり拘束具をはぎ取った男が、アヌスの電極を突き刺したまま、立ち上がり、女王に襲いかかってゆく光景だ。
もはや男の瞳孔は散大していない。男は極めて冷製に襲いかかる。
だがそこまでだ。
全てが真っ白になり、僕の意識は消し飛ぶ。
動悸が治まり、横を見ると彼女がはずしたトーンで唄っていた。
エレベーターは地下に向けて進んでおり、僕は彼女の手を握って、佇んでいた。
5.
ワイングラスを持ち、僕らは向かい合っている。
店内には洒落たクラシックが流れている。
「あなたにはどんな映像が見えたんですか?
あれは全部作られた映像だったんだろうか、それとも何かケミカル・ガスみたいなものに誘導された幻影だったんだろうか。それが知りたいんです。」
その問いに彼女はこう答えた。
「ただのSMショーよ。
それ以上でもそれ以下でもない。
ただ真実はその人の中でしか規定されないものでしかない。
真実が一つしか必要のない人には真実は一つしかない、いくつも必要な人にはその数だけある。そんなものよ。
それ以上でもそれ以下でもない。
女王が髪を振り乱し、ブーツで男の脇腹を蹴り、鞭を交互に降ろしていたとき、あのアヌスに電極を深々と刺されて射精し続けた男の顔が私には父にみえた。
父は退役軍人だった。
3年前、全身の皮下組織が壊死を起こす蜂窩織炎という病気で、身体中から腐臭を撒き散らしながら、父は最期には敗血症で死んでいった。
父は軍を辞めてすぐに商社の中国支社長で赴任したわ。
そのため私とはほとんど一緒に暮らすことはなかった。
長いバケーションで母と私の元へ帰ってくる時、べろべろに酔った時だけ、父は一人饒舌になった。
そして必ず自分の仕事を戦争に例えて語っていたの。
あの熱帯雨林で父は黄色人種を根絶やしにしようと誓ったそうなの。
おかしな話ね。
あれだけ黄色人種を毛嫌いしていたのに、母と結婚し、中国で余生のほとんどを過ごしたわ。」
6.
戦争には段階があるんだ。それは男の仕事の過程によく似ている。
はじめて実戦配備された時、最初はびびって腰が抜けて、匍匐前進するのがやっとだった。それが、銃声と火薬の匂いと、蒸し暑い大気の中で野営し、わけのわからない虫に咬まれたりしているうちに感覚が麻痺してくるんだ。時間の感覚がまず失われ、次に意識の指標になるものが剥ぎ取られてゆく。最初の3人までは覚えている。殺した奴らの顔の話だよ。4人目の頭がスイカが割れるみたいにぶっ飛び、俺の横の伍長の腕の断端がザクロみたいにちぎれて転がった時、私の頭の中で何かがはじけたんだ。意味もなくいらつき、銃器を手に取り、奇声を上げて空に向けてぶっ放す。脳みそに直接誰かが命令するんだ。頭に大きな籠を載せて歩く娘をつけて、親を殺し、村落を焼き、略奪と輪姦を繰り返せ、ってね。イエス、サー。そう復唱する以外にソルジャーにすることがあると思うか?
そのうち私は特殊部隊に配属された。レンジャーになり、密命を帯びて、今度は特定の相手をターゲットにすることになった。頭はクールで冴えまくっていた。いかに自分に少ない負荷で相手を倒すか、それだけを考えていた。闇に乗じて相手の背後から忍び寄り、考える隙間もなく喉笛をアーミーナイフで掻く。声帯から空気の漏れる音がすると、掌に血が飛び出る前にもう一息力を入れるんだ。自分の力とスキルが試される世界。そのころは密林も私の庭のように思えた。
そして、冷房のよくきいた部屋で、冷えたマティーニを傾けながら、作戦を練り、駒を動かし、ゲームを続ける。幸いなことに、私には頭の中では汗をびっしょりかきながら密林を匍匐前進するアーミーを思い描くことができた。これを才能というんだ。現場から離れたとたんにその感覚を失い、無謀な作戦を進める将校を何人も見てきた。そして才能のないヤツは戦争そのものを冒涜し、自滅する。でもそれは個人的には大切なことだが、戦争の本質からすればさほど大事な事じゃない。スイッチを切ればそこは冷えた部屋で、傍らには高級娼婦が佇んでいるんだ。その事実の方が重要事項だ。
それが私の戦争体験だ。いずれにせよ愚かしいが美しい。それしかないから飽きることがないんだ。そうやって奇跡的な階段を上り続けて、私は戦場をあとにすることができた。ラッキーだったと思うよ。もちろん才能も助けになった。五体満足で戦争の全てを体験して、こうやって美しい東洋人の女性を妻にすることができ、お前のようにきれいな娘を得ることができたんだからね。
実のところ、本当に楽しかったのはレンジャー時代だった。でも村落を焼き払えるような兵士たちが、もっとも好ましいし、また扱いやすい。彼らは戦争に取り憑かれているんだからね。そこから抜け出せないでそのまま狂っていくヤツらもたくさん見た。ほら、頭の悪いイタリア人の種馬みたいな男が主演した最低の映画があっただろう。あんな感じだ。ただし、彼らの誇りのために付け加えておくと、そいつらは決して弱かったのではない。戦争に取り憑かれそいつを振り払うことができなかっただけなんだ。それは張り付いて離れることはないんだ。腕に入れられた愛する女のイニシャルのタトゥーのようにね。
7.
そういって父は満足そうに笑った。
細かい点では少しずつ異なったけど大筋はいつもそんな感じだった。
私は父を理解することができなかったけど、何気なくあの男を見ているうちに、了解することは可能かもしれない、と考えている自分に気づいていた。
父が言いたかったのは例えばこのワインのシミみたいなものだと思う。
彼女はそういって、片手をかざし、丁寧な手つきでグラスの赤い液体を絨毯に注いだ。
ほら、こうやって絨毯はシミを吸い込んでゆくわ。
手早くケアすれば、シミは目立たなくなるかもしれない。
でもシミはシミ、決して消え去ることはない。
あの男の顔にはそんなシミみたいな物が刻印されていた。
それはいつの間にか刻み込まれており、それを個人で認識して拭う事は非常に困難なものなのかもしれない。
だってそうでしょ。本人が気づかないものをどうするっていうの?
だからあの男に残されているのは、射精し続けて貧困なイメージを完全に吸い取られたあと、死ぬことでしかないのよ。
そういって彼女は残ったグラスの液体を一気に飲み干し、席を立った。
「ありがとう、今夜は楽しかったわ。でも明日も早くからリハーサルがあるので、これで失礼するわ。」
8.
それが彼女を見た最後だった。
あの劇場を何度か探してみたが、二度と見つけることはできなかった。
彼女の名前を何度か新聞とか雑誌の片隅に見かけた。
でもいつの間にか、知らぬ間に彼女の名前は僕の世界からすっぽり抜け落ちて、誰に尋ねてもその具体的な消息はわからなかった。
はじめっから彼女はそこにいなかったかのように、その存在は僕の中から抜け落ちた。
彼女と実際会って話したのかどうかさえおぼろげになっていった。
光学ファインダーで被写体を切り取る時、相手を殺しているような感覚に襲われる時がある。
そんな時、僕は絨毯のシミと、あの時自分の描いたイマジネーションに関して考えてみる。
ひとまわり以上年上の女はやがて僕の名を名乗り、僕の子供を産んだ。
子どもの喉笛を誰かが裂き、子どもの声帯からは色とりどりのガスが撒き散らかされ、ガスの中にはいろんな種類の音符が浮かんでいる。
しゃべることない僕の子どもは、音符を撒きながら息絶える。そんな夢の光景の中で僕は呆然と立ちつくす。僕はきっと愚かな一兵士にしかなれないのだろう。
ただし取り憑かれてはいない。
だってあの男の瞳は最後はクールだった。狂気と混乱の果てに死があったとしてもあのクールな瞳が手に入れられるのならそう捨てたもんでもない。
でも果たして、それは救いなんだろうか?
シミは少しずつ、確実に拡がっている。
そこから目を背けることなど誰にもできはしないのだ。
〈了〉
【注】
2011.11.28.
『ララ・ハリスの肖像』はR・メイプルソープの撮った写真。モノクロ。メイプルソープはHIVで逝去した。
someday I wrote,
Scrap(Ruby Tuesday)から改題。
吉田拓郎の復活ツアーのビデオを見ながら思った。「今は僕の人生の何章目くらいなんだろう」とか「いつか夜の雨が」とかを聴きながら、内容と関係ない抽象的なタイトルがいいな、と考え、壁をみるとメイプルソープのとった無機的なオブジェとしてのララ・ハリスがこちらを凝視していたのだ。
この小片が何を言いたいのか皆目わからない、でも何となく分かるのだ。これはそういったたぐいの小説だ。うん。
someday,
confusionの中で目をこらせ耳をすましてみるがいい。ぼけていた映像がシャープな像を結ぶように、ビジョンは明確になっていくだろう。
徒労の途上にいても、努力は怠ってはならない。歩いて、少しでも先を目指していくしか方法はないのだから。我々の道は後戻りなどできないのだ。
たとえその先に死しか待っていなくても。たとえオレが愚かな一兵卒でしかないとしても。
そうやって具体的な道を示していくことでしか、『抽象論』は超えられない。そして今我々に最も必要なのはそういった愚かしくっても前に進もうとする『意志』なのだ。
病院の忘年会も終了した。アルコールで死滅する脳細胞とともに年を忘れる?
笑止。
塵のように積もったこの1年という時間の堆積物から、またまた、変われなかった自分を少しでも引っぺがしてみる虚しい努力をしてみる日だ。
そしてその営みは日々刻々と続いている。否が応でも続けることしかない。