http://vi.sualize.us/view/isha77/c3f871c392724d5ed4792480bed84dfc/
バーを出ると外は霧の様な雨。傘はない。僕は雨の中を歩き始める。
君はカウンターにうつぶせてささやかな寝息を立てている。少し疲れた横顔を僕はジン・ライムのグラス越しに眺めていた。二人であることが二人をしめつけている。僕等はそうやって駄目になってゆく人達を何人も見てきた。
彼らは泣きも喚きもしなかった。実際、僕等の目にはそれらの光景はとても奇妙に映った。しかし、今、僕には彼らの気持ちが手に取るようにわかる。
もうこれ以上続けられないわ。スーパーのチラシのモデルなんてもううんざり。何時間も脚が棒になるまで立ち続けて時給はたったの1000円ぽっち。カメラマンはフィルム代をけちってなかなかシャッターを切らないし、それでいてはやく着替えろ、スタジオの借り賃がかさむ、俺はおまえらと違って忙しいんだって喚くし、普段は寝ぼけまなこでいるくせに、私が目の前で着替える時だけジロジロ眺めるの。結局、私はモデルとしてなんか見られていないのよ。 君は一息でグラスの液体を飲みほす。
やめようよ、もうそんな話。最近ちよっとゆるんできた君のウエストだって、目のまわりの小皺だって、僕は気にしちゃいないさ。君の髪をかきあげる仕草は今でも十分セクシーさ。
僕は今、こうして、冷たい雨の中を歩いている。体の芯まで凍えそうな冷たい雨さ。ほら、君がいつも変な匂いだって言って鼻をつまんで駆け抜けた養鶏場の所さ。
雨と寒さで鼻はぐしゅぐしゅさ。だけどやっぱり君の言うとおりひどい匂いさ。
灯りが金網を照らし出し、鶏たちは忙しそうに首だけを動かして餌をついばんでいる。
鶏は餌を食べて卵を産む。僕と君が日曜の朝おそく起きだして、そいつをベーコン・エッグにして食べる。そして鶏は餌を食べて卵を産む。
くりかえしさ。同じことの。
セクシーな雌鶏がお尻を振りながら言う。
これでもなかなかハード・ワークなのよ。そうねえ、やっぱり体のコンディションには人一倍気を使ってます。でも人間なんてなぁんにもわかっちゃいないのよね。二三日前の新聞にのってたでしょ。悪臭がひどすぎるからって住民団体の強烈な反対を受けて、来春にはここも移転しちゃうの。ほんとにあんたたちはいつも何にもわかっちゃいないのよね。
それで?僕は彼女に耳を傾ける。
彼女はもうしゃべってはくれない。僕みたいな青二才の相手をする暇なんかきっとないのだろう。
鶏達は忙しそうに餌をついばんでいる。金網を雨がたたき続ける。そして僕達はほんとに何にもわかっちゃいない。
君は目を覚まし洗面所で化粧をなおし、バーテンに軽い冗談の一つか二つでもしゃべっているだろうか。
先に帰ってしまった僕の事を愚痴って、厚い毛皮のコートを羽織る。扉を開けると冷たい外気が流れ込む。君はコートの襟をあわせ白い吐息をつく。
雨が降っている。
鶏達が羽根を散らしながら騒ぎたてる。
いつだったか、この鶏小屋の灯りが灯台の灯りみたいに思えた時があった。僕達は、出航したばかりの船みたいにみずみずしく、そして頼りなかった。
僕は車を停めてしばらくの間、光をぼんやりと眺める。低いエンジンのアイドリングの音と、僕等を導いてくれる灯り。それがすべてだった。あの頃。
いつのことだったろう。もう随分昔の事のような気がする。君には言ってなかったよね。でも本当はそんなに前の事じゃない。君の言うとおり、僕は何もかも分かっていて、それでいてずるく立ち回りを演じているだけなのかもしれない。
君はタクシーを拾い、僕の前を通り過ぎる。鉄の階段を細いヒールで駆け上がり、バッグの中を手探りする。いつものようにキーが見つからなくて君は僕の名前を呼びながらドアを拳で殴り続けるだろう。
僕は鶏小屋の前に佇んでいる。鶏小屋の前に佇んで冷たい雨にうたれている。
重信に住んでいたときだったろうか、いずれにしてもずいぶん昔のことだ。多分近辺のどこかに『養鶏場』があったのだ。その頃の重信は今みたいに開けてなくって、それこそ田舎にカフェバーとかなんか唐突にあったりする場所でもあった。
やっぱりそれはそれは鶏の匂いというのは大したもんで、近所には来てほしくないな、と思ったものだ。
自転車道を重信にさかのぼっていく途中に、養鶏場がある。重信方向の川の右側だ。何回通っても、やっぱりそこだけ異質な匂いだ。
そこを通るたびに、この昔書いた掌編のことをなんとなく思い出していた。
そしてご丁寧に探し出して復活させてみたわけだ。
なんか、この掌編の主人公に現在会ったら、廻し蹴り入れて、後ろからはがいじめにして、このやろこのやろと、タケシ風に殴っておケツでも犯してやりたい。
でも、そのあとで、うんうんお前の気持もわからんわけでもないよ、と、ヨイコヨイコしてむぎゅっと抱きしめてやりたい。
答えなどない、冷たい雨の中に立ちつくしても、ヒトは変われないのだろう。
そう簡単には。
現実の世界でも、それから長い月日がたった。
自分は変わったのだろうか?