京都で大学浪人していた。
京都駿台予備校は二条城の隣にあった。寮は東山南寮といって、清水寺方面にあった。
狭い、明かりの入らない部屋に、男4人が暮らし、何をするでもなしに夜ごと悶々としていた。
好きな女の子(ほぼ個々人の勝手な片思いのようであったが)の名前を犬の遠吠えよろしく吠えあげた夜もあったな。
そこは明治にできた華麗な赤レンガ造りの建物だったが(タバコ工場だったとか?)、
中は真っ暗の、ホントに牢獄みたいな建物で、そういえば部屋の窓の外には鉄格子がはめられていた。
昼前に起きだし、遅い朝か昼か分からない飯を、近所の『ときわ食堂』に食べに行く。
初老の物静かな夫婦が切り盛りしており、何か仲良くなって話したとか言う記憶もない。
ハムエッグ定食は卵二つに薄っぺらいハムだ。
ちょっと裕福な気分に浸りたいときはこれまた薄いカツ定食を頼み、ガラスケースの小皿料理を余計に取る。
そこでは酒とか飲んだ記憶もほとんどない。
高校卒で殆どが初めての一人暮らしの若人たち。
そんなに勉強するわけでもなく、かと行って京都観光するわけでもなく、予備校にそう足繁く通うわけでもなく、
あの暗い部屋でボクラは一体何をしてたんだろう(案の定二浪したことがすべてを物語っていますが・・)。
その昔、中村雅俊主演の『俺たちの旅』というドラマがあり、
一応大学生のカースケ(中村雅俊)と、オメダ(田中健)と、なぜか社会人のグズロク(秋野太作)が人間ドラマを繰り広げた。
明日のことなんてくよくよ考えるよりも今日を精一杯生きるのが大事なんだよというセオリーにのっとってドラマは展開し、
その一挙一動にボクラは感動するわけであった。
あのヒトはそんなヒトじゃないよ、オレは何があってもあのヒトを信じるよ、信じるってこと、それが大事だろう、
と言いつつ裏切られるカースケ。
でも最後にはみんなで肩組んで、井の頭公園の噴水に飛び込んだりするのだ。
彼らの根城になっていたのが、下宿たちばな荘の1階にある『お食事いろは』という名前の店だった。
なんか、勝手に冷蔵庫からビール持ち出してきて、栓抜きでうれしそうに瓶叩いてしゅぽっと開ける仕草とか、あこがれたもんだった。
そこに東大萬年浪人のワカメとかもいて、よれよれになってカースケに絡んでたりした。
まあ、前述したように、現実の『ときわ食堂』はそんな光景はあんまりなかったのだが。
たまたま検索していてこんなのも見つかる。
読んでいると容易にあの時代に引き戻されてしまった。
自分の同じ部屋には、愛媛県の西條出身、石川県、広島の方の3名がいたと思う。彼らは今頃何をしてるんだろうか。
だんだんいろんなことを思い出す。
自分が京都で浪人していたのは多分昭和54年の頃で、長いひげの京都大学生の寮長さんがおられた。
その寮長がたまたま帰ってこないと予想された夜、
灯りを消した部屋で、ろうそく立てて、電気ポットでおかんして、ビニール張りの床に新聞紙ひいて、
オーブントースターでするめあぶって秘かな宴会をしていたら、なぜか帰ってきた寮長に見つかり、
当然酒も没収され、冷たい廊下に正座させられ、
それから何日間かトイレ掃除を順番でしたのも今となっては・・・いい思い出だ。(のはずないよ)
そうそう、また思い出した。
電柱に掛けられていた(これまた今は亡き)桂 枝雀師匠の寄席のポスターに火をつけた予備校生がいた。
彼が火を付けた理由といえば、枝雀師匠のあの笑顔が気に入らなかったということなんだそうだ。
まあ、京都という土地はなじむまで一元さんには冷たいということだし、
壁の中で生活していたぼくら予備校生は、あまり心開くことも開かれることもなく、憧れだった京都での予備校生活はそれでも2年続くのだったけど。
思い出は尽きない。だいぶデフォルメされているけど。
そんなこんなで、かぐや姫のLP引っ張り出して聴く。いい。
でもオリジナルを聴いているより、べろべろに酔ってカラオケ歌いながら、自分の中で再構築してゆく方が100倍くらいの快感なのである。
部屋の灯り消しながら、また会うその日まで♪
(写真は平野神社の桜)