スポンサーサイト

  • 2014.04.04 Friday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    疲れ果てた高度14400mで『目玉焼きどんぶり』を思いつく。

    • 2008.09.29 Monday
    • 18:44
    medamayakidonnburi
    土曜の外来はバラエティに富んだスタートだった。

    ペニスの先端に結石が嵌頓したという男性が。触るとぐりぐりが触れて痛がる痛がるあー痛ぁい。
    腎臓も水腎症になっている。まだ石があるのか?
    ペニス先端の石は、尿道口からは見えない。
    ひっつきもちのような形で一部変形して尿道粘膜に喰いこんでいるだろう結石を、
    少しずつペアンで探り、位置を変え、ペアン先端で掴み、ペニス根部に手を添えて押し出すように、ジェントルかつ一気に、出す。
    こりゃでかい石だ。よくここまでがんばりましたねぇ。
    おー、尿道からどくどく血が流れるので、ガーゼで圧迫止血して、二人でふー。
    こりゃ心配しなくっても止まりますから。大丈夫大丈夫。
    腎臓の腫れている原因を探るためにCTを・・

    あれっ、しっかり親付き添いだけどいいのパターンの学生さん。
    親がいなくなってから聞くとしっかり性病の兄ちゃんときてる。
    と、朝のしょっぱなからこんな外来が始まる。その他もろもろ・・。

    で、突然に『目玉焼きどんぶり』の話です。

    週末は東京に強行軍・結婚式ツアーに出かけてぐったり。
    田舎ものがまず慣れぬ場所にゆく。それだけで疲れる。高層ビルを見上げながら歩く。電車の乗り継ぎがわからない。疲れる。土地勘が全くといっていいほど働かない。駅と駅の間を延々と歩く。結婚式のスピーチがある。結婚式場が遠い。重たい荷物を持って歩く。疲れる。結婚式で昼間っから酒を飲む。単独行動ではない。楽しいことといえば、東京のカップルは美形で、うしろでさりげなく握った手から移動して、彼氏が彼女のお尻をなでなでしているのを目撃したことくらいか。お姉ちゃん何とか言いなさい。言うわけないか。デートスポットだもんなあ、カレッタ汐留。とびっきりの夜景と吹き抜けのBarだもんなあ。楽しくない、全然楽しくない。
    それでも前夜にカレッタ汐留B2Fでいただいた台北料理(台北・点心 鼎泰豐)は結構いけた。
    メシの味は万国共通だし、どこで飲んでもえたいの知れぬもの以外であれば酒は酒の味がする。よろし。インターナショナルな感じがまたよろしい。日本人の作るエセ無国籍料理&Barより格段いい。
    自分たちは47Fの夜景を見ながらのお高いレストランには躊躇して入ることはできなかったけど、それはそれでよかったと思っている。
    http://www.caretta.jp/shop/restaurant/asia.html
    隣の劇場では、USJで観た、西の魔女の物語『劇団四季・WICKED』もやってた(さすが東京!)し。

    で、結婚式の話はまたにしといて、

    結婚式から帰りの飛行機では、もはや酔いと疲れでぐったり。
    心持ちか寒い。隣のオヤジはエビス飲んでるけどあれって別料金か?熱いお茶をください。
    微笑むスチュワーデスさんが天使に見える。あの人はこんな狭い機内で、それもたった1時間ちょっとノフライトのためにあの笑顔を温存できてるんだ。凄いことだ。ああでもオレ弱ってる、確実に。この発想、弱ってる。
    焦点さえ定かではない。
    HEATWAVE山口洋氏が、資金を募ってCDを作り上げたその期間の日記(Rock'n Roll Diary)を読んだり、目を閉じたり。
    松山は曇りで小雨が降っている。当機はただいまから高度を下げてまいります。

    そうか、明日は弁当作らんといかんのやった。
    途方にくれて、先日blogで見た『目玉焼きどんぶり』を思い浮かべる。
    そのblog主のgodmotherさんは、自分も愛用している中華なべ=ウーウェンパンの使い手である。
    このなべ、焼いてよし、ゆでてよし、そして蒸すための板まで付属しており、蓋が簡易スチーマーみたいになっているのだ。
    彼女のblog内検索で『ウーウェン パン』で検索かけると、レシピがわんさか出てくる出てくる。
    それと関係あったのかなかったのか、くだんの『目玉焼きどんぶり』を見つけていたというわけ。
    http://godmothers.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_3de8.html

    いいか、こいつはな、半熟の目玉焼きの黄身の部分にしょうゆをたらして、その中心にハシを(握りばし状態がベター)さして、ぐちゅぐちゅにかき混ぜて喰うと旨いというところから来てるんだけど、弁当なんで、しょうゆ別に持ってかんといかんでしょ。それで、鰹節としょうがの千切りにしょうゆをあえたものをあらかじめご飯の上にまぶしておいて、白ゴマ振って、その上に目玉焼きで蓋をするんだって(しょうがは自分のアレンジだけど果たして・・)って、書いてあったんだけど明日はそいつでどうかなあ?うん、と、うなづく人。

    というわけで、ありあわせと、目玉焼きどんぶりはいかがなもんだったろう?

    Girls in summer night  同窓会にまつわるその②

    • 2008.09.23 Tuesday
    • 14:37
    「僕が今、つくっているものの98%は、10代で吸収したもので成り立っている」
    by 坂本龍一が御嬢さんの坂本美雨にあてたmailより。

    だからオレたちは1970's childrenなんだよ。やっぱり。
    山川健一氏はブランク70'sとか書いてたけど。決して69年にドラマは終わったわけではない。だってジョン・レノンが死んでもう四半世紀が過ぎてんだぜ。だのにジョンは今でも時々オレの横や、いろんな人の横で勝手にくっちゃべってる。

    That's all right.

    実はピアノも弾きたかった。
    子供が習い始めるのに乗じて教えてもらい始めた。
    最初は練習こそすれ、だんだん課程が進んでゆくにつれ当然難しくなる、そのうち仕事を言い訳にして練習しない、しないから上達しない、先生溜息をつき哀しげな顔をしているのがわかる。でもしない。
    ・・の悪循環を繰り返した。
    それでもたどたどしい『エリーゼのために』までやっとたどり着き、
    前述の坂本龍一教授の簡単版『戦場のメリークリスマス』をリクエストした。
    もうまるで酒場で必殺の一曲を弾けるようになって女にもてたいオヤジの構図さながらである。

    そういったあたりでわたくしのピアノ歴は終わってしまったわけです。

    でもとりあえず、鍵盤をたたいて音が鳴ったり、
    ギターをじゃらんと弾くのは気持ちいい。
    エミフルで購入した小ぶりのblues kingで、やっぱり『陽水』とか『甲斐バンド』とか、
    時折即興で歌詞をつけていい気になって歌ったりしているのが関の山なので、
    何とかならんもんかなあと考えたりもしている。

    そんな酔っぱらいのフレーズに最近は、Girls in summer night・・・というのがよく出てくる。
    同窓会から返ってきてから浮かんだフレーズだ。
    女の子たちはいつだって素敵だ、
    僕は夏服に身を包んで通りを過ぎてゆく女の子たちをみるのが好きなんだ。
    A・ショーの『夏服を着た女たち』にそんな台詞があった。
    そのとおり、歳をとってもいつだって彼女たちは過去のあの輝かしい少女を内包しているのだろう。
    時をかける少女であるマコトをも想起させる。
    もしかしたら浜田省吾さんの歌にそんなフレーズがあるのかなと思ったりもするが探し出せないでいる。

    Girls in summer night
    女の子たちの永遠
    ミラーボールが廻り
    古ぼけたダンスホール ちょっと悪い空気
    けだるい過去の夢の中みたいだ
    でも その時
    夏の暑い風に 君のうなじに張り付いた汗が涙のように流れ落ちてくのを見た

    Girls in summer night
    梶原がおれたち男ばっかしじゃつまんねえからお前つまみ持って文系の女の子のとこに行ってナシつけようぜとおれたちお姉ちゃんの店に来てんじゃないんだからと言いながらも二人けっこう楽しげになってたりするそれにしてもまるで昔と何一つ変わっていないみたいにお前オレに命令してやがるなぁところでお前こんなにべろんべろんなのに次田先生の前で漢文の答えあれはよかったですおまえわかっとんかぁとかフるなよ先生も先生でナニいつものスローペースで目ぇ閉じて過去に帰っちゃって古墳の話なんかしてんですかではこの場所で君たちと僕の間にこれ以上ふさわしい話がほかにあるだろうかってなんてなんで先生詠嘆調になるのかなあ先生全然昔と変わってませんねえ

    女の子たちは 夏のドレスに身を包み
    昔と違うのは
    手に手に 色とりどりのカクテルグラスを持って 笑っていることだ
    女の子たちは 笑いながら 軽やかに踊っているんだ

    Girls in summer night
    Girls in summer night
    僕らはそれに見とれて
    自分の過去がそこにまだ亡霊のように息づいているのを知る
    過去は途切れてなどいなく 連綿と現在や未来の果てまで続いていることを知る
    棺桶に釘が刺されて 灰が空の色に溶けていっても

    Girls in summer night
    Girls in summer night


    もう高校出てから30年の同窓会
    http://ulalaulala.jugem.jp/?eid=573

    *Maiちゃんが貸してくれた中島らも奥様の書かれた本を寝る前に読んでいる。

    ふさわしい週末

    • 2008.09.20 Saturday
    • 16:52
    昼から2時間長かけて、
    アステラス製薬主催・ハルナール発売15周年記念学術講演会(10月4日)での発表用ppt.を一応完成させる。
    スライド枚数は19枚になる。
    タイトルは「αブロッカーとベシケアの使用経験」というミもフタもないものだ。

    生データを学術の方が解析してくれているので、
    もともとの自分の立てた構想に基づいて、流れと考察部分を作ってゆくことになるわけで、
    それってちょっといんちきじゃないとか言われそうだが、なかなかprospectiveな検討はやはりわれわれ開業医には難しいということがこうやって作っているとよくわかる。
    学会発表用の脳みそ領域というのが前頭葉とかどこかにあって、
    実は自分もかっては多少その部分をトレーニングして増幅させていたのかもしれないが、今ではそんなものは跡形もないのだろう。
    だって、自分のデータ見てても、それはちょっとデータとしては弱い、とか言い出すと、
    どんどん整合性のない部分ばかりが出てきちゃうのだから。
    やはり前向きなデザインをして、それに沿った治療をして結果を出し、解析する、というのがベストだろうけど・・。
    学会でプレゼンしている日赤の先生とか皆さん見ていると、その思考回路には唸らされる。
    でも、知識がないところには発想も限られるわけで、そう言い出すと人間一生学問という言葉は、しみわたる。

    自分の外来臨牀領域では、やはり本能と経験則と、その場で浮かぶ最良の選択で切り抜けているのだろう。
    そして、このうぬぼれ屋さんは、その選択をほぼ99%くらい信じているのだけど。
    この自分の絶対的信頼度と他人の相対的信頼度が大幅にずれたとき、このおちんちんのお医者さんとちっぽけな王国は勝手に滅びてゆくのだろう。
    願わくば、それが自分の頭のクリアなうちに訪れますことを。

    村上春樹のエッセイか何かに、昔は立派だった王国が滅んでゆくのを見るのはつらいというような趣旨の文章があった。
    でも、自分に置換すると、自覚しないまま、年老いて、周りが見えなくなるのはもっとつらいだろう。な。

    関係ないけど、市川準監督、亡くなってしまった。享年59歳。やはり若すぎる。
    彼は、18日夕方、都内のスタジオに入り、新作短編「buy a suit スーツを買う」の編集作業を行った。
    作業を終えた深夜、1人で小腹を満たそうと入った飲食店で倒れた。
    渋谷区の病院に搬送されたが、19日未明帰らぬ人となった。
    以上は、ネットからとったのだけれど、なんか小説みたいな文章だ。
    今、Maiちゃんの貸してくれた中島らもさんの本を読んでいるので、余計にそんな風に思うのかもしれない。
    らも氏も、くしくも脳出血で帰らぬ人となった(ただし酔っ払って階段から落ちて)。
    その人の人生を3行で表すとしたら、自分にはどんな言葉がふさわしいか?

    Amazonから井上陽水のCDと、花田裕之のCDが届く。

    トニー滝谷と開院記念日と生と死と孤独
    http://ulalaulala.jugem.jp/?day=20070201

    日常の料理も実はいろんなsomethingにinspireされている。

    • 2008.09.19 Friday
    • 18:58
    butayasaimaki
    JUGEMテーマ:男の料理

    とってもヘビーですが、これだけは今日中に書いておきたいので。

    ネットとは実に不思議な空間だ。
    ホントは誰かもわからないその人ともう長いことずっと隣で付き合ってきたような錯覚に襲われる。
    好きな娘の引き出しかなんか開けて秘密の日記を覗いたような気になることもあれば、
    見たくもないものをこれでもかと押し付けられそうになるときもある。
    まあ後者の場合はすたこらさと逃げてしまえばいいんだけど。
    そういかないのが人間存在の矮小で微妙なところで。
    犯罪者は現場に戻ってくるとかいうし、困ったもんだ。
    因果応報。放たれた矢は必ず戻ってくるので、あまり無責任でいるのもやばい。

    そういったことはおいといて、
    先日commentを下さった、godmotherさんのサイトの料理を見て、兎に角豚肉に野菜を巻いたものを発作的に作った。
    http://godmothers.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-3f8f.html
    お断わりを入れておくのは、彼女のは本格的食材を用いた料理で、自分のはスーパー発作的むふふ料理ということ。

    ●豚ロース肉の野菜巻き
    カナダ産豚トンカツ肉を自慢のイタリア製肉たたきで伸ばし(伸びる伸びる)て、塩こしょうする。
    朝のベーコンというヤツを肉1枚に対して2枚ずつ横に敷き、冷凍インゲンとポテトをおいて肉をグーッと巻き込む。
    テフロン加工フライパンにオリーブ油をたらし、じっくり焼いてゆく。同時にエリンギも入れて焼く。
    いったん肉を取り出し、肉汁に白ワインを入れ、鶏がらスープのもとを投入し、乾燥プルーンの荒切りを入れぐつぐつ。
    最後のあたりに冷蔵庫の隅に眠っていたベビーチーズを刻んで入れた(ラクレットチーズはないので)。
    そのソースにちょっとしょうゆとバルサミコをたらして、肉と絡める。ああ、バターも入れたなあ、どの時点か忘れたけど。
    まあ、いい。とにかく完成。おお、とにかく、旨そう。

    以下、最近の周辺写真(順不同)。
    recipi200809
    ●ナスの味噌炒め
    ・じわじわと蒸し焼きにして両面焦げ色がつくくらいまでなったナスに、
    赤みそとみりん少々と砂糖少々と、だし汁大さじ2くらいのたれを加えて、花椒をぱらぱらっとかける。
    ●さといもの中華風焼きコロッケ
    ・さといもを蒸して皮を剥きマッシャーでつぶす。砂糖・塩・コショウ、ごま油、片栗粉、とき卵を加えて、
    タケノコ・チャーシュー・しいたけ・ネギ・生姜荒みじん切りを炒めた物も加えて混ぜる。
    なんかアバウトな分量で具だくさんで作るとタネがゆるゆるで、オムレツみたいになってしまった。
    ●京風ハンバーグ 
    ●アサリとキャベツの黒酢ヤキソバ
    ●オトナのハッシュドビーフ(これ評価いまひとつでしたが・・)

    いつもお店ではプロの方々の料理を口にして勝手なことばかり言ってますが、
    ホントあれだけのものをリーズナブルな値段で提供していただいて、かたやこちらは酔っ払って適当なこと言ってて、
    恐縮です。

    ラ・ページュで食した『鱧のオルロフ風 ルーコラのピュレソース』の写真です。
    うーん、こうやって写真にするとあのときの空気が再現できんなあ。それがとっても残念なので、ぜひお店で食べてください。
    のり庵のとりも、鳥匠の焼き鳥も、まるまやのチキン南蛮も、空我の麻婆豆腐も。みんなみんな捨てがたい味たちです。
    lapagehamo


    ネットの河を渡るということ

    • 2008.09.15 Monday
    • 11:21
    顔のない裸体たち (新潮文庫 ひ 18-8)
    顔のない裸体たち (新潮文庫 ひ 18-8)平野 啓一郎

    ネットなしで生きていない人も多いと思う。何とはなしにネットサーフィンして、あの情報を横目で眺め、ケッとつぶやき他のサイトに飛ぶ。
    飛んだ途端にさっきの情報は曖昧になり、数十分後には皆目見当もつかなくなっている。
    だけど、たとえば、ネットなしで暮らす日々が長くなれば、それはそれで生きてもいけるし、そう困りもしないのだと思う。

    昔はなかったはずの物が、ゴーストではなく、クリックで引き寄せられる範囲内に存在する。
    だのにそれはクリックなしでは実は存在しないにも等しい。
    なんか、そういうネット的なものって、今日的である。
    TVの中で見た戦争、映画の中で観た殺戮、膨大なネットの海で再構成され、さらにニューロンで歪曲される映像。それらは私の脳みその中に染み込みつつある。

    それらをわれわれはどう受け止めて、どう自分の中に入れてゆけばいいのだろう。

    平野啓一郎という芥川賞作家がいる。
    自分はよく知らなかったのだが、彼の存在がネットをめぐる論客として最近いやおうなしに視界に入ってくるので名前と顔を知るようになった次第である。
    その彼がネットをめぐる世界と現実の断面を、『決壊』(上・下)という大作で描き出した。
    お盆の頃から読み始めて、うなされたように読み続けて、最後までいたったのだが、
    読後のコンフュージョンに関しては言葉に出きずにいる。
    水面下の魚のように口をパクパクさせて、のどもとをひぃひい言わせて、脳もすっかり酸素欠乏でいるくせに、実は口にすべきコトバがまだないのだ。

    もうじき休刊してしまう月刊PLAYBOY9月号では、池澤夏樹責任編集で、『詩は世界を裸にする』という文学的な特集が組まれている。
    A・ランボー、ギーンズバーグ、金子光晴、中原中也、寺山修司、谷川俊太郎(子供の教科書の冒頭に載ってた。)、
    その他多くの自分の知らない世界の輝かしい詩人たち。

    以下は、谷川俊太郎氏インタビューより
    読んだら忘れないと次が読めない。これは全世界的な先進社会の現象だから。
    特にコンピュータが出来て、記憶容量がものすごいことになっているから、止めようはないだろうという感じですね。
    Q.そういう全体状況の中で谷川さんの戦略というのは?
    別に戦略はないんですけどね(笑)。要するにフローに乗っかってるしかないんじゃないでしょうか。
    (略)反省して立ち止まることもできない、食っていこうと思えば。だからそのフローのなかでたとえその一瞬であれ、あるいは3日であれ、人にある程度何かを提供できるものを作ろうという感じですかね。
    Q.謙虚な。でもそうですね、物書きが「なんとしてもストック」というふうにやると、つぶれるのがオチってことですね。
    だろうと思うなあ。やっぱり自分が満足できるものを書くしかないんですよね。自分が書いてて面白がって、できたらうれしいってことが一番だって気がします。

    このインタビューを何度か読んでいるうちに、
    これは世界とコミットしてゆくってことについて、ある「場」における一つのスタンスを示してくれているのではないだろうか、と、自分は読んだ。
    たしかに、今では、歩き続けてゆくしか、泳ぎ続けてゆくしか、
    あるいは逆に、黙り続けて存在そのものを消してゆくのか、二極化した方法しかないのかもしれない。
    かつてボブ・ディランは長い沈黙を保ち、奇跡のように復活した。だが、オレの沈黙の先にはせいぜい棺桶が横たわっているだけだろう。

    その平野啓一郎氏が、2006年上梓した、『顔のない裸体たち』という中篇を読んだ。
    出会い系サイトで知り合い、自分の女を野外放置プレーとかしたものを写真に撮り、ネットの同好サイトに流す、そんな男と女の物語だ。
    彼らは、Web上ではミッキー&ミッチーで、決してボニー&クライドではない。
    だから彼らはあのシネマのスクリーンのように、誇り高き笑顔で銃弾に倒れたりはしない。
    彼らの破綻はすべてのことが終わった後、いささか滑稽に語られる。しかしながら同様の無数の後継者たちが引き継いでくれるだろう。

    以前(このblogの前に)書いていた『ひまわりバンク』というサイトがあった。
    まだblogは黎明期であり、文章主体のサイトだった(現在閉鎖)。そこのアクセスNo1がまさにそういう日記だった。
    彼女(推定10代後半から20代前半)は、ご主人様に、すごいカッコさせられて、野外でオナニーやフェラさせられたり、スクール水着・首輪でファミレスいったり、スカートのすそを自分の口で咥えたままで注文を言わされたり、その他もろもろの行為と精液にまみれたりして、その時の感想を奴隷として自らの口で語るのであった。

    以下は、『顔のない裸体』女=ミッキーこと<吉田希美子>の引用、
    大人になった<吉田希美子>は、昔勉強していたように日中働き、放課後を過ごしたように仕事を終えた時間を過ごしたが、何となくそれが同じでないことは感じ取っていた。かつて学校で勉強していた彼女は、ひたすら未来の自分に奉仕し、学び、考えたことを何年も後の生活に供給していた。そして放課後は彼女につかの間の現在を与え、両者は交互に並べられて、彼女を時間の流れへと併走させ、前へと押しやっていた。
    それが、今は違う。
    彼女は職場のある学校で、ただその日、その時のためだけに生きていた。
    そして帰宅後も、翌日の「その日、その時」のための準備をしているに過ぎなかった。

    生きていくということ。

    『決壊』のなかで、平野氏は、
    誰もがそうであらねばならないと信じているであろう現代の強迫観念のごときものとしての『幸福』についても言及している。
    そして『悪魔』とは確かに一体誰なのか?
    いい学校に入って、会社を定年まで勤め上げて、還暦を祝っていただき、ローンの返済の終えた家で家庭菜園でもする、
    ・・・なんて人生をいまさら誰もが欲しがったりはしないだろう。
    バブリーな老後のために、善でも悪でもない金をせっせとかすめ、資産を転がして、おねえちゃんとちょっと一泊旅行に行く、なんてぇのもあんまりウエルカムじゃない未来予想図である。

    そのように、モデルのない世の中では、何でも自分で判断して、
    右へ曲がるか左へそれるか、瞬時に決定してゆかねばならない。

    それが100%正しいのかなんて誰にもわからんさ。

    それが自分で満足できるもので、なんか少しの間においてでも、ほんの少しでも、社会と接点があったりすると確かにいいんだろう。

    PR

    calendar

    S M T W T F S
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    282930    
    << September 2008 >>

    ブクログ

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    recent trackback

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM