顔のない裸体たち (新潮文庫 ひ 18-8)平野 啓一郎
ネットなしで生きていない人も多いと思う。何とはなしにネットサーフィンして、あの情報を横目で眺め、ケッとつぶやき他のサイトに飛ぶ。
飛んだ途端にさっきの情報は曖昧になり、数十分後には皆目見当もつかなくなっている。
だけど、たとえば、ネットなしで暮らす日々が長くなれば、それはそれで生きてもいけるし、そう困りもしないのだと思う。
昔はなかったはずの物が、ゴーストではなく、クリックで引き寄せられる範囲内に存在する。
だのにそれはクリックなしでは実は存在しないにも等しい。
なんか、そういうネット的なものって、今日的である。
TVの中で見た戦争、映画の中で観た殺戮、膨大なネットの海で再構成され、さらにニューロンで歪曲される映像。それらは私の脳みその中に染み込みつつある。
それらをわれわれはどう受け止めて、どう自分の中に入れてゆけばいいのだろう。
平野啓一郎という芥川賞作家がいる。
自分はよく知らなかったのだが、彼の存在がネットをめぐる論客として最近いやおうなしに視界に入ってくるので名前と顔を知るようになった次第である。
その彼がネットをめぐる世界と現実の断面を、
『決壊』(上・下)という大作で描き出した。
お盆の頃から読み始めて、うなされたように読み続けて、最後までいたったのだが、
読後のコンフュージョンに関しては言葉に出きずにいる。
水面下の魚のように口をパクパクさせて、のどもとをひぃひい言わせて、脳もすっかり酸素欠乏でいるくせに、実は口にすべきコトバがまだないのだ。
もうじき休刊してしまう
月刊PLAYBOY9月号では、池澤夏樹責任編集で、『詩は世界を裸にする』という文学的な特集が組まれている。
A・ランボー、ギーンズバーグ、金子光晴、中原中也、寺山修司、谷川俊太郎(子供の教科書の冒頭に載ってた。)、
その他多くの自分の知らない世界の輝かしい詩人たち。
以下は、谷川俊太郎氏インタビューより
読んだら忘れないと次が読めない。これは全世界的な先進社会の現象だから。
特にコンピュータが出来て、記憶容量がものすごいことになっているから、止めようはないだろうという感じですね。
Q.そういう全体状況の中で谷川さんの戦略というのは?
別に戦略はないんですけどね(笑)。要するにフローに乗っかってるしかないんじゃないでしょうか。
(略)反省して立ち止まることもできない、食っていこうと思えば。だからそのフローのなかでたとえその一瞬であれ、あるいは3日であれ、人にある程度何かを提供できるものを作ろうという感じですかね。
Q.謙虚な。でもそうですね、物書きが「なんとしてもストック」というふうにやると、つぶれるのがオチってことですね。
だろうと思うなあ。やっぱり自分が満足できるものを書くしかないんですよね。自分が書いてて面白がって、できたらうれしいってことが一番だって気がします。
このインタビューを何度か読んでいるうちに、
これは世界とコミットしてゆくってことについて、ある「場」における一つのスタンスを示してくれているのではないだろうか、と、自分は読んだ。
たしかに、今では、歩き続けてゆくしか、泳ぎ続けてゆくしか、
あるいは逆に、黙り続けて存在そのものを消してゆくのか、二極化した方法しかないのかもしれない。
かつてボブ・ディランは長い沈黙を保ち、奇跡のように復活した。だが、オレの沈黙の先にはせいぜい棺桶が横たわっているだけだろう。
その平野啓一郎氏が、2006年上梓した、
『顔のない裸体たち』という中篇を読んだ。
出会い系サイトで知り合い、自分の女を野外放置プレーとかしたものを写真に撮り、ネットの同好サイトに流す、そんな男と女の物語だ。
彼らは、Web上ではミッキー&ミッチーで、決してボニー&クライドではない。
だから彼らはあのシネマのスクリーンのように、誇り高き笑顔で銃弾に倒れたりはしない。
彼らの破綻はすべてのことが終わった後、いささか滑稽に語られる。しかしながら同様の無数の後継者たちが引き継いでくれるだろう。
以前(このblogの前に)書いていた『ひまわりバンク』というサイトがあった。
まだblogは黎明期であり、文章主体のサイトだった(現在閉鎖)。そこのアクセスNo1がまさにそういう日記だった。
彼女(推定10代後半から20代前半)は、ご主人様に、すごいカッコさせられて、野外でオナニーやフェラさせられたり、スクール水着・首輪でファミレスいったり、スカートのすそを自分の口で咥えたままで注文を言わされたり、その他もろもろの行為と精液にまみれたりして、その時の感想を奴隷として自らの口で語るのであった。
以下は、『顔のない裸体』女=ミッキーこと<吉田希美子>の引用、
大人になった<吉田希美子>は、昔勉強していたように日中働き、放課後を過ごしたように仕事を終えた時間を過ごしたが、何となくそれが同じでないことは感じ取っていた。かつて学校で勉強していた彼女は、ひたすら未来の自分に奉仕し、学び、考えたことを何年も後の生活に供給していた。そして放課後は彼女につかの間の現在を与え、両者は交互に並べられて、彼女を時間の流れへと併走させ、前へと押しやっていた。
それが、今は違う。
彼女は職場のある学校で、ただその日、その時のためだけに生きていた。
そして帰宅後も、翌日の「その日、その時」のための準備をしているに過ぎなかった。
生きていくということ。
『決壊』のなかで、平野氏は、
誰もがそうであらねばならないと信じているであろう現代の強迫観念のごときものとしての『幸福』についても言及している。
そして『悪魔』とは確かに一体誰なのか?
いい学校に入って、会社を定年まで勤め上げて、還暦を祝っていただき、ローンの返済の終えた家で家庭菜園でもする、
・・・なんて人生をいまさら誰もが欲しがったりはしないだろう。
バブリーな老後のために、善でも悪でもない金をせっせとかすめ、資産を転がして、おねえちゃんとちょっと一泊旅行に行く、なんてぇのもあんまりウエルカムじゃない未来予想図である。
そのように、モデルのない世の中では、何でも自分で判断して、
右へ曲がるか左へそれるか、瞬時に決定してゆかねばならない。
それが100%正しいのかなんて誰にもわからんさ。
それが自分で満足できるもので、なんか少しの間においてでも、ほんの少しでも、社会と接点があったりすると確かにいいんだろう。