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    レプリカントな日々

    • 2007.02.20 Tuesday
    • 18:16
    Ray / レイ
    Ray / レイ
    ジェイミー・フォックス

    『ブレードランナー』のレプリカントをいつもこんな時は思い出す。
    それらすべてもオレの死とともに消える。終わりだ。
    そういって彼はフリーズした。
    暗い空、重い雨。羽ばたく鳩。
    それが彼の最後に見た光景だ。

    非常にヘビーである。

    時間は有限であり、その中で一人一人に目いっぱいの時間を割くように計算はしている。
    だけど、5分診療とかいうが、
    一人の患者さんに割く時間を無限にはできない。
    どこかにしわ寄せがきて、それは往々にして自分にきている。
    金曜日とかはパニックだった。
    もう叫びだしたくなり、最後にはスタッフにあたりたくなった。

    かといって、多くのスタッフとじっくり時間を割いて話すこともなかなかできていない。

    有限の時間の中で、多くの医者は自分の時間を削って、多くの善意で働いていることだろう。(そりゃ当然生活とか余興とか賃金とかもあるに決まってる)
    決してあぐらをかいて、飽食を満喫しているわけではない。
    自分はそう信じている。

    しかし、オレの死とともに、この感情も消えてゆく。
    そしてオレがかかわった人たちに対してオレが思ったことどもも。
    諦念と肯定の振幅の中で蠕く感情ども。
    だから、病院で最後の日々をある程度共に過ごすということは、
    その人の人生にある一部分を(癌とか疾病がキャラクターを歪曲していても)共有するということだ。

    病というのは実に大変な代物だ。
    認知症というのはその人がその人でなくなってゆくということだと考えるとそれだけで真剣に怖くなる。
    言い過ぎかな?
    でも、昨日まで隣で抱き合った人が、
    あんたさんどちらの方ですか、と、マジな目で言われた日にゃ、
    ・・・たまらんだろうな。

    だから、
    (自分では自分の暮らしにあぐらをかいているわけではないと信じているが、)
    このブログがマスターベーションであるとか、
    自己満足とか言われようが、
    そしてたとえそうであっても、
    俺はやはり時々こうやってキーボードに向かうだろう。

    【追記】
    レイ・チャールズの『Ray』をようやく観る。
    980円の廉価版DVD。これでも儲かるんだろうか。
    シンガーのドラッグにまみれた個人的生活と、
    謳い上げられる『我が心のジョージア』に何の関連性もない。
    それではこの映画は何に主眼を置いて作られたのか?
    死んでしまった弟へのトラウマ、
    盲目になったことへの恐怖、
    それに付随するドラッグと生み出される音楽の崇高さ。
    よくわからないのに、主役のジェイミー・フォックスは素晴らしかった。

    おぉ おまい すぃーと じょーじあ
    じょーじあ おん・まいまいんど。

    夜尿症のパンフレット

    • 2007.02.15 Thursday
    • 14:44
    enuresis


    先日の連休2/12の午後を費やして、患者さん向け『夜尿症パンフ』と『排尿日誌』をほぼ完成させる。

    以前、患者指導用パンフを作ったときは、えらく詳しくなってしまいA4 5枚にもなった。

    今回はそのまんま診察室で説明する感じで、
    夜尿症にはどういったタイプがあって(排尿日誌を付けてもらうことが如何に重要かをわかってもらうため)、どういった基本的生活態度をとればいいのかということを前面においた。

    以前と違うのは、我々が使える治療の新アイテムとして、デスモプレシンが(尿比重1.022以下の夜尿症に保険適応)加わったということ。

    あと、協和発酵さん主催で開催された『愛媛夜尿症フォーラム』(H18.6.3)で、日本夜尿症学会理事長の赤司俊二先生の講演を聴いて、少し夜尿症に対するスタンスが自分の中で変わってきたという側面もあったりする。

    もっと真剣にとりくまんといかんなあ、
    すっごく長いスパンで親と子と付き合っていかんとね、
    そのためには面倒そうでも排尿日誌きっちり付けてもらおう、
    トフラニールだけじゃなくってバップフォーとかも積極的に使おうか、
    とか、まあそんな感じである。
    でもまあ、おとまりの前の数週間で何とかしてくださいと来られる方の頻度は今でも減ってはいないし、治療ドロップアウトしたり、薬だけとりに来られる方もいたりという現状も片方では依然としてある。

    医療のこういった情報提供のようなことをMobavle Typeの方で形にして、
    ずっと更新の兆しもないHP(blog)リニューアルをもくろんでいたのだけれど、
    ・・・なかなかとまったままなのである。

    協和発酵のおねしょナビはよくできたサイトなのでご一読を。

    おねしょナビ http://www.kyowa.co.jp/onesho/index.htm

    ノルウェイの森  に わけいる

    • 2007.02.12 Monday
    • 12:45
    1.
    村上春樹氏自身が述べているように、
    『ノルウェイの森』は誰がなんと言おうが、作者自身がそこを通過していかなければならない小説だったのだろう。
    最後のページを閉じて、しばらくして、ボクはうんうんとうなづいた。

    最近、氏の翻訳として、
    満を持して発行された『グレート・ギャッビー』に取り掛かる前に、
    1987年に発行されて大ベストセラーとなり、
    当時なんか違うよなという気持ちで読み進んだまま棚の奥におかれていたこのストーリーを、46歳の自分自身も、再確認しておきたかったのだ。

    2.
    ナオコやレイコやミドリやハツミさんや、多くの女の人に囲まれ、
    フェラチオや射精が頻出するこの小説は、いったい何なんだろうか?
    多くの人がそれぞれの身近な死に邂逅し死を抱え込んでいる。
    死は小説ではいささかドラマチックに見えないこともないが、地味なものである。
    ワタナベトオルはそれでもかたくなに、
    自分の責任の範囲内でと、他人との距離を測り続けようと努力する。

    心弱気ものが、透明な世界で苦しんでいる。
    わかっていても誰も助けられないことなんて星のようにある。
    だからあなたは現世界で現実を受け入れて生きなさい、そうする権利があるのよ。
    セックスの後、レイコさんはそんな風に言った。

    3.
    今のボクは、何が強くて、何が弱いのかさえわからなくなっている。
    何が正しくて、どのやり方がベストなのか、どうやったらゴールがあって、どうやったらシアワセになれるのか。クエスチョンクエスチョン、クエスチョンばかり。

    それでもゲームは続き、
    右か左か、上か下か、クライ森か緑の湿原か、マリオかルイーズか、瞬時に僕らはセレクトしなければならない。

    みんななにかを選ぼうとして壊れていったのだ、

    そして、
    ワタナベトオルはどこにもない場所から、一本だけつながっている現実世界へのラインにダイヤルする。

    でも、そこ(ミドリ)は世界の中心でもなく、ワタナベトオルはきっと愛を叫べはしないだろう。

    4.
    誰にでも手を差し伸べよう。
    話すことで、ボクの気持ちをわかってもらえる、
    そうなるまで努力は惜しまないべきだ、そうだろ?
    そして君と手をつなぎ、カラダをあわせ、朝の光を待つ。
    うしろめたい白茶けた光の中で、
    そしてボクラはきっとシアワセになるんだ。
    ・・そんな風に、1987年の自分は信じつつ、
    セックスをして、
    傲慢に女の子を傷つけていたんだろう。

    じゃあ46歳の今のオマエはどうなんだ?

    先輩の永沢さんが、主人公のワタナベ君に言う、

    「他のやつらはみんな自分のことをまわりの人間にわかって欲しいと思ってあくせくしている。
    でも俺はそうじゃないし、ワタナベもそうじゃない。
    理解してもらわなくったってかまわないと思っているのさ。
    自分は自分で、他人は他人だって」

    この文章のニュアンスだけど、一読すると、主人公や読者が永沢さんの意見を肯定しにくいように、
    村上春樹は匂わせて書いている。

    でも46歳の自分は、

    わかりあえることからはじめようというのは、
    もうちょっと違ってきているんじゃないのかな、
    ヒトとヒトとの関係において、
    そういったことがむなしいとか哀しいとかは別の次元で、
    組まなければならない関係性もたくさんあるはずだ。
    そして僕らの生きている世界では時にとってもステキなガールフレンドだけでは成り立たないこともある。ハツミさんみたいな人も、50本のバラも、色褪せた風景写真のようだ。通り過ぎてゆくもの。

    ・・と今の自分はどちらかというと永沢さんに組しているのか?
    (でも永沢さんが幸せかと言われると、うーん、と唸るけど)

    5.
    なんとか、自分は、
    自分の中のワタナベトオル的なものにとりあえず手を振れたような気がした。

    だって、生が死を内包しているように、
    ボクもワタナベトオルを内包しているのだから。

    だからいつでも会える。
    あなたたちにも、この森奥深くで。

    6.蛇足

    ノルウェイの暗い森で、ナオコは細かい霧のような雨に打たれ続けているのだろう。

    僕は過ぎていったヒトの頬を伝う涙を風景のように眺めている。
    そこにぬくもりや、甘い森の香りはない。
    でも、眺められているだけでいいんだよ、きっと。
    君の哀しみは僕の中で透明になって、もう実感として感じられるものではない。
    でも、そういった思いがあったことを僕がぼんやりとでも覚えていることで僕は君と繋がっていられるような気がするんだ。
    かろうじて。

    死と生と、生と死と、おしっことうんこにまみれた世界に、僕は帰る。

    じゃあね。

    また手紙を書くよ。

    トニー滝谷と開院記念日と生と死と孤独

    • 2007.02.01 Thursday
    • 16:04
    村上春樹,市川準,イッセー尾形,宮沢りえ,西島秀俊,坂本龍一
    (2005-09-22)
    開院記念日である。
    昼食は特別メニューで刺身がついている。
    昨日、朝早く、患者さんを見送った。
    そう疲れていないと思ったが、覚醒すると身体が異様に重かった。

    昨夜は、ブランデーを飲みつつ、村上春樹氏の短編『トニー滝谷』を読んで寝た。

    昼からシャントPTAをし、
    消防署の方の話を聞く。

    映画の方の『トニー滝谷』(市川準監督作品、イッセー尾形主演・2005)も観た。

    人生とは不可解なものであり、死は泉の様にあちこちから湧き出て去ってゆき、ホントの自分を理解してくれるものを見つけたと思った瞬間、それは掌からするりとこぼれ落ちてゆく。

    死は生に含有されており、生の対極に死があるのではない、というようなことを、
    『ノルゥエイの森』の主人公は語っていた。

    『トニー滝谷』は、人間が死ぬときは誰しも一人であるという意味において誰もが平等である如く、誰もと同じく孤独である。

    こう入力して、
    孤独がボクの横に座って、静かに呼吸しているのを感じることができる。

    その孤独の種類は、
    学校でいじめられたりする子の瞳の中にある憎悪を含んだものでもなく、
    兄が妹を殺さねばならなかった世界にある歪曲されたようなものでもなく、
    戦争で脚を失って、チタンの杖でうまく歩く子供の所有するものとも違う。

    生きることに属する、死に属する、人間存在そのものに属する孤独。

    亡くなった妻のブランド物の服を処分し、
    死んだトロンボーン奏者の親父のジャズレコードを処分した後、
    トニー滝谷はホントウに孤独になった。

    ぷつん、

    ハードディスクの回転音がなくなり、モニタは真っ暗だ。

    でも、

    孤独もまた、生に内包されているのである。

    映画版のほうでは、市川準監督はささやかな救いを用意した。

    しかし、その用意されたラストにおいても、
    トニー滝谷の孤独を小賢しく人為的に救おうとしないという点では、
    村上春樹氏と市川準氏は同じ視点に立っている、のだ、

    と、

    夜中、原作を2回読みおえてやっと思えた。

    http://www.tonytakitani.com/j/index.html

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