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評価:
村上 春樹
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1.
村上春樹氏自身が述べているように、
『ノルウェイの森』は誰がなんと言おうが、作者自身がそこを通過していかなければならない小説だったのだろう。
最後のページを閉じて、しばらくして、ボクはうんうんとうなづいた。
最近、氏の翻訳として、
満を持して発行された『グレート・ギャッビー』に取り掛かる前に、
1987年に発行されて大ベストセラーとなり、
当時なんか違うよなという気持ちで読み進んだまま棚の奥におかれていたこのストーリーを、46歳の自分自身も、再確認しておきたかったのだ。
2.
ナオコやレイコやミドリやハツミさんや、多くの女の人に囲まれ、
フェラチオや射精が頻出するこの小説は、いったい何なんだろうか?
多くの人がそれぞれの身近な死に邂逅し死を抱え込んでいる。
死は小説ではいささかドラマチックに見えないこともないが、地味なものである。
ワタナベトオルはそれでもかたくなに、
自分の責任の範囲内でと、他人との距離を測り続けようと努力する。
心弱気ものが、透明な世界で苦しんでいる。
わかっていても誰も助けられないことなんて星のようにある。
だからあなたは現世界で現実を受け入れて生きなさい、そうする権利があるのよ。
セックスの後、レイコさんはそんな風に言った。
3.
今のボクは、何が強くて、何が弱いのかさえわからなくなっている。
何が正しくて、どのやり方がベストなのか、どうやったらゴールがあって、どうやったらシアワセになれるのか。クエスチョンクエスチョン、クエスチョンばかり。
それでもゲームは続き、
右か左か、上か下か、クライ森か緑の湿原か、マリオかルイーズか、瞬時に僕らはセレクトしなければならない。
みんななにかを選ぼうとして壊れていったのだ、
そして、
ワタナベトオルはどこにもない場所から、一本だけつながっている現実世界へのラインにダイヤルする。
でも、そこ(ミドリ)は世界の中心でもなく、ワタナベトオルはきっと愛を叫べはしないだろう。
4.
誰にでも手を差し伸べよう。
話すことで、ボクの気持ちをわかってもらえる、
そうなるまで努力は惜しまないべきだ、そうだろ?
そして君と手をつなぎ、カラダをあわせ、朝の光を待つ。
うしろめたい白茶けた光の中で、
そしてボクラはきっとシアワセになるんだ。
・・そんな風に、1987年の自分は信じつつ、
セックスをして、
傲慢に女の子を傷つけていたんだろう。
じゃあ46歳の今のオマエはどうなんだ?
先輩の永沢さんが、主人公のワタナベ君に言う、
「他のやつらはみんな自分のことをまわりの人間にわかって欲しいと思ってあくせくしている。
でも俺はそうじゃないし、ワタナベもそうじゃない。
理解してもらわなくったってかまわないと思っているのさ。
自分は自分で、他人は他人だって」
この文章のニュアンスだけど、一読すると、主人公や読者が永沢さんの意見を肯定しにくいように、
村上春樹は匂わせて書いている。
でも46歳の自分は、
わかりあえることからはじめようというのは、
もうちょっと違ってきているんじゃないのかな、
ヒトとヒトとの関係において、
そういったことがむなしいとか哀しいとかは別の次元で、
組まなければならない関係性もたくさんあるはずだ。
そして僕らの生きている世界では時にとってもステキなガールフレンドだけでは成り立たないこともある。ハツミさんみたいな人も、50本のバラも、色褪せた風景写真のようだ。通り過ぎてゆくもの。
・・と今の自分はどちらかというと永沢さんに組しているのか?
(でも永沢さんが幸せかと言われると、うーん、と唸るけど)
5.
なんとか、自分は、
自分の中のワタナベトオル的なものにとりあえず手を振れたような気がした。
だって、生が死を内包しているように、
ボクもワタナベトオルを内包しているのだから。
だからいつでも会える。
あなたたちにも、この森奥深くで。
6.蛇足
ノルウェイの暗い森で、ナオコは細かい霧のような雨に打たれ続けているのだろう。
僕は過ぎていったヒトの頬を伝う涙を風景のように眺めている。
そこにぬくもりや、甘い森の香りはない。
でも、眺められているだけでいいんだよ、きっと。
君の哀しみは僕の中で透明になって、もう実感として感じられるものではない。
でも、そういった思いがあったことを僕がぼんやりとでも覚えていることで僕は君と繋がっていられるような気がするんだ。
かろうじて。
死と生と、生と死と、おしっことうんこにまみれた世界に、僕は帰る。
じゃあね。
また手紙を書くよ。