借りていた『中春こまわり君』を読む。
一度目に読んだ時はそうも思わなかったがしみじみしてしまった。 山上たつひこ氏のもう一つの名作『光る風』 のラストのあのヘヴィネスに通じる。 とすると、『がきデカ』のあの突拍子もないパフォーマンスは、山田こまわり君自身が詠んだ句のように、 もともとの形がそうだったがゆえに祈るような姿勢のまま死んで骨となり無くなってゆくヒキカエルのムクロの如く、無常と救済を表現しているのかもしれない。・・・いや、こまわり君は解説したあとできっちりギャグに堕しているではないか。 蟇(ヒキガエル)祈るかたちに枯れつくす そして、死といえば、 立花隆氏の講演を聴きに行き、世界的な物理学者・戸塚洋二氏のことを知ったのは昨年の秋だった。 戸塚氏の最後の日々のblogをビジュアルに再構成したNHKヒューマン・ドキュメンタリー『あと数か月の日々を〜物理学者・戸塚洋二 がんを見つめる』 を見る。 氏のblogタイトルが『A Few More Months』 (死の直前にThe Fourth-Three Monthsと改題される)というものであった。 このドキュメントの製作者の意図はいささか不明瞭ではあった。 製作者は、稀代の物理学者が死を前にして宗教感をも内包してゆき、かつ、科学者であり続けるという過程を、残念ながら描ききれなかったのだと思う。 自分の死への過程をも詳細なデータとして残して分析することにこだわる戸塚氏。自分の死んだ先にあるのが『無』の世界なら、それを見られるはずなのだが、それを記録に留めて報告できないのが科学者として悔しいと語る戸塚氏。宗教に寄り添いながらもそれに依存せずに、あくまで科学者として最後まで生き続けた戸塚氏。それらが淡々と進行してゆく。 しかし、blogにある死に向かっての弱音の部分は意図的にカットされていた。 人間である以上、確かに感情はどんなに断ち切ろうとしてもついて離れないことは事実だ。『癌の先にある死』という究極の事実に向かってなだれ落ちようとする感情を冷静に受け止められた(受け止めようとした)戸塚氏のぶれない姿勢と、裏に見え隠れしてblogに表出する弱音。この対比があり、しかも前者が圧倒的であることこそが素晴らしいのだ。 「悩んだ時はデータに立ち返れ」そういつも戸塚氏は言っていたそうだ。 データ。客観的事実の羅列の中に、法則性や、答えは眠っている。そしてニュートリノに質量があることを彼は結論したのだ。 うらら科学の仔たる自分も、『客観的事実』から逃げないで最後まで戦えた(だろう)戸塚洋二氏の遺志をくんで生きてゆきたいと思いました。 http://fewmonths.exblog.jp/ http://ulalaulala.jugem.jp/?eid=613
さて『ピータン豆腐』 である。 結構ピータンが好きなのだが、これまた一般的な嗜好ではないらしい。 アヒルの卵を土中に埋めて化学変化を起こさせるもので、あのまがまがしい色と匂いと食感すべてがすばらしい。 酢醤油でもよし、ラー油をたらしてもよし。白髪ネギとかトッピングしてむにゅむにゅ感とサラサラ感のハーモニーを楽しんでもよし。ああ、また喰いたくなったぞ。 で、長いもとオクラとミニトマトとピータンをあえて、少し水を抜いた固めの木綿豆腐にトッピングして、特性ソース(しょうゆ大3・酢大3・胡麻油大2・砂糖小さじ4・おろししょうがたっぷり)をかけて食す。ちょっぴり石垣ラー油もたらしたな。 レシピにはビールにぴったりと書いてあったが、ためしに飲んだキリンのアルコール0の発泡酒ライクな『FREE』とはやや相性悪い感じだった。 でも、確かに飲み終えると酔った感じがしてそれはそれですごい。 今度はピータンとザーサイとその他との炒め物でも作ろうかと思ったりした。
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れいなのささやき
2009/07/24 12:30 PM
戸塚さんが千の風になってが嫌いとブログに書いていらっしゃいましたが、
私も同じです。
病室にいるとき、誰がこんな歌好きになれるものでしょうか。
病室でこんな歌、かけることなんてできません。
新井満、きらいなんですよ、昔から。