エッセーをまとめた小冊子が送られてきた。『泌尿器科とわたし』というものだ。
日本泌尿器科学会ができて100年の記念というわけだ。
それと全く関係ないんだけれど、4月に横浜である泌尿器科学会総会には、久々に、たった一日ではあるけど出かけることになっている。
デジタル化のため、カセットテープからパソコンに音を送りながら、
原田芳雄さんの歌声で聴いた『横浜ホンキートンクブルース』の横浜である。
さて、内容は多岐に渡る。
脊髄損傷による神経因性膀胱、二分脊椎の女の子が休み時間も必死でトイレで排尿処理をして友達に話せない話、泌尿器科医を夫に持つ妻から見た泌尿器科というもの、
間質性膀胱炎の人にわかってもらえぬ苦しみ、尿閉を繰り返した男性の話、予期せぬ精巣腫瘍、前立腺癌、膀胱腫瘍・・まさになんでもありだ。
自分はいつも治療者側なので、余計に興味深く読んだ。
自分が学生の時の話だ。
鎖骨骨折の手術待ちで大学の整形外科に入院した。
はじめての入院。二人部屋をたまたまひとりで占拠していたなんか興奮した第一夜、その夜中に、急遽、脊髄損傷の男の方が入院となった。
シャベルカーとかが崩れ落ちての事故だったらしい。
かたや河原で花見してて、合気道部のやつにふざけて投げられて鎖骨を折ったのんきな自分、
その横の家族は陰鬱なムードで、(一応)医学生である自分にあれやこれや病気のことやこれから先のことや尋ねてきた。
知識のなかった自分はろくに答えられず・・・最後には言葉に窮したものだった。
それから何年後か、自己導尿で通院している彼と、たまたま、大学の泌尿器科外来の廊下で再会した。
彼は、もう仕事はね、こんな身体だから出来んのよ、あの時の子供ももう大きくなったよ、そうかねもうちょっとで先生やね、と笑った。
その時ポリクリ(臨床実習)の学生だった自分は、ああ、あの時、この病気のコトとかそれに付随するもののことなんて、自分はなんにもわかっちゃいなかったんだと痛感したものだった。
そんなことやあんなこと、いろんな思い出が一瞬ずつ蘇った。
いずれにせよ人間はひとりで生きて行きたくっても、ひとりで生きていくことなんてできない。
誰かの助けになり、その自分が誰かを助けて、生きてゆくのだ。
泌尿器科たる自分もそうやってきたつもりだ。
いまからだってそうやっていくだろう。
それらがうまくゆかない時もある、逆におどろくほどスムースに行って医者冥利につきる時もある。
でもそれは、医療を受けられる患者さんの方だって同じだったんだ。
そんなことをいまさらのように気付かされる。
だから、だかれでも、それゆえに力まなければならないなんてことはないのだ。前を向いてちょっとでも進めてるかぎりは。
まえがきで、九大の内藤誠二教授がこんなふうに書かれている。
原稿の多くは泌尿器科”がん”に関するものであろうと予想していましたが、以外に排尿障害に関するものが多かったのにまた驚かされました。
(略)いかに”おしっこ”の問題がQOL(生活の質)を脅かす辛いものかを改めて考えさせられました。
泌尿器科の最も泌尿器科たるところは、何といっても”おしっこ”の問題の解決にあると再認識した次第です。
もううちの娘は言ったことさえ忘れてるだろう、
『(お父さんは)おちんちんとおしっこのお医者さんです』という最大級の褒め言葉を掲げながら、
自分も泌尿器科としていけるとこまでいけたらといまさらのように思う。
毎日ちびっこたちとの戦争、大変ですね。でも、お産前って導尿するんですか?知らんかったなあ。お産の最中にピューッとかおしっこ出たりするからなんかなあ?謎だ。
なんでも自然にしてる時はわからんのですが、正常に排泄できるってことはホント幸せなことなんですよね。だから健康であるってことはホント元気に産んでくれた親に感謝ですが、としとるにつれ、自己責任の割合が増えてくので、もっと自分も節制せんとイカンですよ。
というわけでリハビリウォーキング始めました。昨日は松山まで飲みにゆくのに歩いた歩いた。1:13,6.27kmでした。それを遙かう上回るアルコールとカロリーでしたが(笑)
一日では、先生を接待できる
美味しい吞み屋にはいけませんね。
新しく入ったナースが男性で色々知っていて
美味しい場所も知っているのです。制限あるから、毎回はいけませんが
透析室で介護保険払っているのが自分だけ(笑)なのは悲しい…。
去年、私も同窓会ありましたが
なかなか楽しいものです。
無理せず、ゆったりまったり←実際はできませんが。がんばります。