竹内先生の葬儀のミサで、牧師さんは先生のことを『兄弟』
と呼んだ。人類はみんな運命共同体であり、同じ船に乗っているという点で考えれば、たしかに兄弟だなあ。
ちょっといいコトバかも、兄弟。
兄弟、ちょっとそこのコップとってくれよ。兄弟、明日また会おうな。なんかいい。
兄弟は、地上での生活を終えられて天に召されました。
牧師さんは先生のプロフィールを語られ、最後にそう締めくくった。
神も仏にも執着のない自分だが、なんか牧師さんのその話だけすっと腑に落ちた。
どうしてかはわからない。
先生の長い長い闘病生活がやっと終わったんだという安堵からなのかもしれない。
いや、三途の川を渡って蓮の花咲くところに行くのではなく、なんか天使が手を引いて天に登っていくというイメージのほうが自分にとって違和感なく受け入れやすかっただけなのかもしれない。
そこで『李白捉月』の話を思い出した。(『李白の月』南伸坊 ちくま文庫より)
晩年、李白は、
当塗の近くで長江に船を浮かべ酒を飲み詩を詠じていたときに、水面に映った月を取ろうとして溺れ死んだという「捉月伝説」である。
南伸坊さんの漫画のほうではこうなっている。
その晩も詩人はひどく酩酊していた
月が川面に揺れるのを掬いとろうとするらしかった
旦那様、いい月ですね
・・・・・・・・
グラリと舟が傾き船頭は目のはしに
詩人が大きく身を翻すのを見た
不思議なことに水音が聞こえなかった
注釈で、南伸坊さんはこんなふうに書いた。
酒仙、詩仙、謫仙と評された李白は、あるいは麒麟にまたがり、あるいは酒瓶によりかかった姿で描かれて、歴代の仙人の仲間に数えられているというのに、こんなにやすやすと溺死してしまうのはいかがなものか?
私の解釈はつまり、船頭の見た水中へ沈んでいく李白の姿は、すなわち月に向かって昇仙する李白の、水に映った影のほうであったとそういう「落ち」であったのです。
竹内先生は、ゆらゆらと水の中を月に向かって登って行かれたのだ、と、そんな光景を思い浮かべて、なんだか腑に落ちた。
その手をひいてくれてたのが天女だったりすると、いかにも先生らしいよな、とか、ひとりで余計腑に落ちたりもしたのだった。
うん。
ご冥福をお祈りします。