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    色川武大「狂人日記」を再度読み終えた。

    • 2013.12.30 Monday
    • 14:47
     色川武大「狂人日記」をおれは読みきることができるのだろうか?

    というエントリーを書いてから約一ヶ月。色川武大「狂人日記」を再度読み終えた。
    以下はその走り書きというか殴り書きみたいな覚書である。

    irokawa

    2013年12月30日

    理解しようと思って読むからいけないのだ。そう思う。
    しかし自分にはそういった読み進め方しかできないのだ。

    岩山を両手だけを使って這い進むように「狂人日記」を遅々たるも一度は読み終えたのだった。
    そして、色川武大のことを書いたといわれている、伊集院静氏の自伝小説「いねむり先生」をkindleで読み、
    実世界で色川武大氏のパートナーを20年間務めた色川孝子氏の、「宿六・色川武大」というエッセーを、古書で取り寄せて読んだ。
    そうして、実際の色川氏のことを知ったようなふりをした上で、また、「狂人日記」を読み始めたのだった。

    無論そんな読み方に意味など無い。
    無粋な読み方だ、とも思う。
    しかし自分はそんなアプローチしかできなかったのだ。

    小説は、主人公の「キチガイ病院」への入院から始まる。

    宇宙型の蜘蛛や、猿や、遠くて近い和太鼓の音や、幻聴や、自分の体から生えてくる死人や、自分を付け狙う蒸気機関車や、自分を殺しにくる小人のスペイン人たちや、いろんな幻覚と主人公は共生している。

    やがて扉を通り、窓に黒いカーテンがかかった部屋の中央でとまる。そこには白衣の人たちが大勢居る。
    自分はもがこうとするが身体が動かない。
    長い金属の棒を組み合わせてできた機械や、鋭い錐が垂れさがった機械が眼に入る。
    やがて一人が横に立ち、大きな鋏で夜具を切り裂き、ついでに小さな男根を握って二つに裂く。鋏はそのまま伸びて下腹部から胸に。何人かが皮を剥ぐようにし、しゃべり合いながら内蔵を一つずつ取りだして、椅子の上に順においていく。最後に腸を、消防のホースのようにまるめておく。内蔵たちは鋭い光沢を放ち、それぞれくたびれたように身動きしない。肝臓に、金蝿が一匹とまっている。一人の男が、こちらの胴体、つまり皮を持ち上げたりして何かを探している。他の人たちもいっせいに、くまなく点検し、中には顔までさわる奴がいる。それからガヤガヤしゃべりながらどこかへ行ってしまう。(p70-71・福武文庫版・1993/10/5第1刷より)

    とまあこんなすごい感触と主人公は同棲しており、そこには発展もなくなんの必然もなく、他人もこんなこと共とともに寄り添って生きているのか、ただそれを出さないだけなのか、と、淡々と主人公は語るのだった。

    吾妻ひでお氏の「失踪日記」や、最近の「アル中病棟(失踪日記2)」を読んでも、そんな幻覚との共存の一端を垣間見ることができるが、それを「解釈」しようと思うところで、もう、自分は「狂人」ではないんだなあ、「凡人」なんだと思わされる。
    だからこの「狂人日記」に対する接し方は、やはり文学的興味でいいのだと、またまた自分に言い聞かせてはみるのだが・・。

    小便のように涙が流れる。さほど哀しくもないのに。多分、涙を流した後、また少し気力が戻るのだろう。(p123)

    園子が死んだ夜、あいかわらず無表情に静まり返っていた世界。
    園子にも、園子が死んだことにもそうだけれど、園子が死んでも何の変化も見せない空の色なんかが納得できない。そういう実感は年月がたっても微動もしないで喉もとにひっかかっている。理屈とも関係ないし、現実とも一致しているわけでもない実感という奴は、ただそうやって閉鎖しておいておくよりしかたがない。
     (略)
    自分は、正気と狂気の間を行き交いながら、いつも自分の狂気のことを考える。正気についても考える。どちらについても明快な認識が得られない。ただ、両方を行き交う気配について鋭敏になるだけだ。そうして自分と他人の違いについても鋭敏になろうとする。(p134)

    引用ばかりで申し訳ないが、こうやって印象に残ったところを打ち込んでいても、やはり核心からは離れていく一方だという忸怩とした思いもあることは確かだ。何もかもが意味があるわけではなく、何もかもが納得の上ではなく、それでも受容して日々は成り立っているというような当たり前のこと。それはたしかに理屈ではないが、さりとて実感でもなく。

    この、以下の透き通るように美しい散文詩のような文章は、なんの関係もなく小説の中で出てきたのだった。
    あまりにも美しいセンテンスたち。頭のなかに突然湧き上がるイメージ。
    生きているものも死んでいるものもいつかおんなじ次元に居るようになる、これは歳を取ってくるにつれ、(正常人たる)自分にも了解可能になってきた認識でもあった。だから誰も死んじゃいないんだって認識。だから現実世界で自分のおふくろがいないことも、自分がやがて滅することも自分にとってはそんなには問題ではないんだ。
    脇道にそれたので戻すけど、この美しく湧きいでる泉のようなイメージに、自分は宮沢賢治を重ねたりもしたのだった。例えば永訣の朝とか、クラムボン(宮沢賢治の「やまなし」)とか。

    たくさんの人の声が耳の中できこえた。彼は沼の水を呑んでいたんだよ。彼は泥の中に入って溺死したんだ。彼とは誰のことかわからない。彼は自殺したんだよ、することがなかったから。彼は逃げたよ。死んじゃいないよ。彼は中毒死だよ。死体が変色していたって。彼は、とても医者を怖がっていたよ。(p147)

    主人公は、病院で知り合った若い女と、外界での生活をはじめる。そして、幻覚か、夢か、リアルか、わからないものに喰いつかれ侵されながら、こう思うのだ。

    どうしたらいいだろう。
    自分は誰かとつながりたい。自分はそれこそ、人間に対するやさしい感情を失いたくない。(p179)

     圭子と一緒にいるのが心苦しい。ほとんどまるごとの負担を彼女にかけながら、なおその上に自分の都合に沿ってくれる女を期待している。自分はいつか彼女に捨てられるだろう。
     自分はわがままで身勝手で、病者というより欠陥者だ。人に甘えることを知らずに過ごしてきたような実感があるが、とんでもない。絶えず人に頼らねば生きてこれなかった。弟に頼り、女に頼った。それがあるものだから、自分の主張や望みをストレートに出せない。
     自分は生きるに値しない。それを記せば実も蓋もない、のだから嫌になる。生きるに値いしないが、生きないわけにもいかない。医者のいうとおり、病院は休むところだった。生きるに値いしないということを、しばし忘れさせてくれた。
     ところが、結局、休んでいたくもないのだ。何とかして自分も生きたいのだ。弟や圭子を喰ってでも。
     医者はどちらかに態度を定めろという。まことにもっともだけれど、それは他人の言い草で、どちらに徹しても、自分としては元も子もないようなものを放棄することになる。で、一方で心苦しさが増し、一方で欲求不満も増す、そのはざまのところであえいでいるほかはない。
     自分をそういうところに追い込んだ犯人は、病気か。さて、それはどうだろう。卵が先か、鶏が先か。(p235-236)

    そして、物語は終末を迎える。一切喰わずに死のうと決意する主人公。たくさんの人や獣が現れる。死んだ父親や、幼いころの街の人々や、死んでしまった犬も。彼らはただあわただしげに歩いているだけだ。そして同棲している彼女の叫びはもはや現実か幻かわからない。和太鼓の音が近づいてくる。

    「いつ頃からか、はっきりいえないがね。人間というやつは、とことん、わかりあえないと思っちゃったよ。服装や言葉や生活様式や顔つきまで似てくれば似るほどに、似ても似つかない小さな部分が目立ってきて、まずいことに、皆、その部分を主張して生きざるをえないものだから、お互いに不通になっちゃう。病気になって、はじめて病人のことがわかったかと思ったが、これが全然わからない。多少わかるのは俺の状態だけだ」(p260)

    ああ、終わってしまったよ。
    書けば書くほど、引用すればするほど、指の隙間からボロボロとなにものかがこぼれ落ちてゆく。
    リアルワールドの色川武大氏はこの作品で、1988年に「読売文学賞」を受賞し、その2ヶ月後の4月10日に心臓破裂で亡くなられた。
    色川孝子氏の夢枕には、オレは天国にいるんだ、と現れたらしいけど・・。

    果たしておれはまた「狂人日記」を読むだろうか?わからない。
    ただ言えるのは、幾度、犬が臭いをかぐかのごとく周辺を巡ってみても、どこにも辿りつけないということだ。
    すべての問いは「狂人日記」の中にしかないからだ。
    そしてどこにも答えなどないのだ。

    色川武大「狂人日記」をおれは読みきることができるのだろうか?

    • 2013.11.22 Friday
    • 19:34
    コメント:小便のように涙が流れる。さほど哀しくもないのに。多分、涙を流した後、また少し気力が戻るのだろう。色川武大・狂人日記より・123ページ

     いつも疲れているような気がする。
    十分な睡眠をとっているのに爽快感はそうない、疲れているというよりは、正確に言うと何かに追われている心境か。

    伊集院静氏の「いねむり先生」のドラマを観た。

    なぜかというと、このドラマの中で、夏目雅子を失い廃人のようになった主人公「サブロー」を導いてくれる「先生」が、あの阿佐田哲也氏だと知ったからだ。
    主人公の「サブロー」は藤原竜也さんが、ナルコレプシーの「先生」は西田敏行さんが演じられていた。
    阿佐田哲也といえば、麻雀をしない自分でも知っている「麻雀放浪記」の作者であり、「狂人日記」というとんでもない作品を残したあと心筋梗塞で急逝された昭和の作家だ。
    「狂人日記」は純文学で、そちらの方のペンネームは色川武大という。

    その「狂人日記」が、自宅の本棚の片隅で20年以上も眠っているのも心の底では知っていて、引っかかり続けていたのだ・・。

    サブローが、夢のなかで、黒い馬に乗った3人の男に追い詰められてゆく。
    逃げ道はない。夢か幻覚か。繰り返す。

    おれもよく悪夢を見る。
    それは他人に語れば他愛のないものではあるが、見ている時には本人にとってはかなりシビアなものである。
    今いるこの場所が気に入らないわけでもないのだろうけど、過去の後悔や懺悔が、有象無象になっておれを押しつぶそうと時折訪れては触手を伸ばすのだろう。
    それは自分が巻いた種の残滓であるので、ある程度は受け入れようとは思うのだが、そうそううまく受容することなど出来はしない。
    そうやって地獄の業火にあぶられるまで、この煩悩とともにそこに持っていくしかないのだろうね。

    夜になって、その「狂人日記」を紐解くが、いかんせん目が開かない。
    数十ページであきらめて、寺井尚子さんのヴァイオリンを聴きながら眠りに落ちる。

    そんなことの繰り返しだ。

    結局、ヒトを救ってくれるのはヒトだ。

    だけど、サブローを救った当の先生は「孤絶」の中にしかいなかったという皮肉。
    まったく人間ってやつはもともと「孤独」過ぎる存在だからこんなにも共鳴しあうんだと思うよ。
    それがいつのまにか慣れ合いや憎しみに変わるのは、結局は個人の資質次第なんだろう。
    寄せては返す、繰り返す波の中に何を見つけるかは、結局自分次第ってことなんだろうけど。

    そんなわけで、「狂人日記」を読み始めてからは、そちらの世界のほうが凄まじいのでなんだか悪夢が減ってる気さえしている。

    「きみのためのバラ」多分3回めの再読(池澤夏樹)

    • 2013.10.10 Thursday
    • 14:42
    著者 : 池澤夏樹
    新潮社
    発売日 : 2010-08-28

    池澤夏樹氏の「きみのためのバラ」何度目かの読了。
     
    前回読んだ時は、初頭の短編「都市生活」にインスパイヤされて、『ケイジャンチキン』なる料理にトライしたのを思い出した。
     

    ケイジャン風チキン 2010.11.24 Wednesday

     
    パリでの短すぎず長すぎない、人生のなかばにおけるある男の隠遁生活を切り取った「人生の広場」という短編を最後に読み終えて、本を閉じる。
     
    なにか書き記しておかねばならぬような強迫観念のごとき思いに突き進められて、朝っぱらからこうして書いている。
     
    「人生の広場」
     
    自分にとっての第一の「人生の広場」は、ティーンエイジャー最後の2年間を暮らした、京都での予備校生生活だったのかもしれないなと思う。
    どこにも所属することができず、焦りながらも、若い自分は、人生というものが自分にはじめて降ってくるのを感じていたんだと思う。
    親のすねはきっちりかじっていたくせに、高校生という庇護された生活からドロップアウトして、「予備校生」という名前だけを冠されてどこにも帰属できないまま、まさに「浪人」となって、それだけではどこにも門戸は開かれるはずもなかった。
    あれはまさに・・
     
    この物語の彼は最初にこんな風に語り始める。
     
    「人生に曲がり角のような時があるときみは考えるか?」
    「危機ということかい?」
    「危機は向こうからやってくる。そうではなくて、自分が歩いていくうちに、一度立ち止まって次の方位を決めなければならない場所にさしかかるんだ」
     
    そして彼は、人生という街路を歩いて行って辿り着いた広場について語り始める。
    広場でぶらぶらしながら、次に辿るべき路を模索する。
     
    「大事なのは、先を決めないままその広場でしばらく過ごすというところだ」
    「本当ならもう方針は決まって、順調にそこを進んでいるはずの年頃で、それでもふっと立ち止まることがある」
     
    そう、これは第二の「人生の広場」についての考察の物語なのだった。
     
    方向が定まっている人生にも何度だって波風は訪れる。
     
    しかしそういう激動(例えば倒産、例えば離婚、例えば死別)とは異なって、ふっと訪れる、凪のような瞬間、
    そこで「意識的」に立ち止まって、右か左かを決めるのではなく時に流れにたゆたってみること、
    そんなある種贅沢だがもし過ごすことができたら非常に有益な時間を、物語の語り手は「人生の広場」と呼んだのだと思う。
     
    確かに、この人生、踊り始めたら止まることはできない。
    ネジが切れてもアキレス腱が切れても、ヒトは人生という舞台でステップを踏み続ける。
    踏み続けなければならない。
    脱落するまで。息が切れるまで。
    「まだまだお元気じゃないですか」「十分やれますよ」そんな言葉に鼓舞されながら。
    かつて、それが人生というものなんだと思った。(今も十分思ってるかも?)
     
    あっちをむいてようやく本腰入れて始めた瞬間に、こっちから別の矢が飛んできて、それを避けようとしゃがんだ地面でまた別のトラップが待っている
    今の自分の生活は毎日がまさにそんな感じだ。
    外来が終わり、職員が帰って、病院の灯りが落ち、そして頭は見事に崩壊している。
    家に帰って料理を作り、風呂にはいるともう寝る時間だ。
    料理は料理で充実しているけれど、こんなことを繰り返していいのかと問いかける自分に対して答えられぬままアルコールを煽る。
    でもそれはそれで充実してるんだろうけど。
    そんなことの繰り返し。
    さあまた明日しなければならないことの段取りを始めるとするか。そんな感じ。決して悪くはない。
     
    「人生の広場」という単語は、
    「でも人生それだけじゃないよね」、って、
    簡単な言葉に置き換えたら、そういう感触の思いのことなのかもしれない。
     
    物語の彼は後半でこう語る。
     
    「どうだろう。
    いつも寂しさはついて回るし、人はみな一人で生きると誰もが知っている。
    あそこでは人は深い孤独に落ち込みかねない。
    だから恋をするし、だから食事に時間をかける。そういうことを私は学んだ。そう日記に書いたのを覚えている」
     
    おれはパリの移動祝祭日(ヘミングウェイがかつてそう名づけた)を生きたいわけではない。
    今のおれの人生だって、十二分に移動祝祭日だと思うから。セコすぎるだけのことだけど。
     
    そしておれは、そんな広場の存在をなんだかこの数年考えていることに気づいている。
    疲れているから?いやそれだけじゃない。
    そこで過ごしたらどうなるかとかでもない。
     
    なんていうんだろう、ああわかんねえや。
    わかんないひとにはわかんない、わかるひとにはちょっとわかる。そんなもんだろ。
     
    尻切れトンボだがここでおしまい。なかなかうまく語れない。
    うまく語ることができたらとっくに小説家になれてたかもね。
     
    以前読んだ時の感想がblogにあった。
    こうやってその時その時の環境とかテンションで、選択されるものが異なるのも面白いよね。
     

    「考える生き方」という本を読みました。

    • 2013.09.27 Friday
    • 12:56
     病室でいつも二言目には「しんどぉい、しんどぉい」と叫んでいた爺さんがいた。
    彼もとっくの昔にいなくなった。
    Restの時が来て、彼は目を閉じたまま、息することをやめる。
    自分の骸から起き上がり、振り向いて息をしていない自分を見て、そして傍らで立ちすくんでいる親族に深々と一礼をする。
    病室のドアの向こうにある見えないドアを開けて、彼は出て行く。
    果たして彼は「しんどい」(と叫び続けた)人生とはおさらばできただろうか?

    それにしても、爺さん、まったくheavyだよな。それはまちがいない。
    確かに生きるってことはしんどすぎるよ。まったくあんたの言うとおりさ。おれも毎日叫んでるよ、心の中では。

    ある日の夕刻、ベランダに犬たちを放ち、座して、水を飲みながら、アルファブロガーであるfinalventさんの「考える生き方」という本を読み始める。
    やがて犬達は、主にちょっかいかけるのも飽いたのか、おれの隣に座した。
    でもちょっと体を動かすとすぐに、アイ(雌)の方は口を舐めにくるし、ユウ(雄)は肩に抱きついて腰を振りにくる。
    お前ら犬なんだからもっと走りなさいよ、と言っても、あきまへん、なかなか二人で滑走してはしてはくれぬ。

    くれぬくれぬでは日も暮れぬ。

    finalventさんは55歳でこの本を書いた。

    彼の人生は、自分で言うよりも波瀾万丈の人生であり、彼が自らを宣言するような負け組という感じは決してしない。
    ちょっと自分より先輩である彼が、自分の言葉で自分の半生を語るのを、興味深く読み進めた。
    もともとgodmotherさんという、blogを通じて知りあわせていただいた彼女が、自分の文章の中でも時々(しばしば)finalventさんを語っており、
    それで、この本が上梓された時からずっと読もうと思っていたのだ。



    ・考えて了解する人生は誰もが実現できる。 
    考えた結果失敗するかもしれないが、誰かの成功法則を自分で実験するよりも、自分で考えて自分だけの人生を発見していくほうが、結局、納得できる人生になる。

    ・失敗を都合よく考えようというのではない。失敗は受け取るしかないが、失敗の意味を理解して生きるのは自分だけ、ということだ。

    ・自分で考えた分の答えしかない。

    ・もし私が催眠術にかけられて、「年はいくつですか」と問われるとしたら、きっと私は最初「55歳です」と答えるだろうが、「では、心の年齢は何歳ですか」と再度問われたら、「35歳」と答えるような気がする。 
    35歳で心の成長が止まったような気がするのだ。 翌年の36歳に結婚したからかもしれない。 結婚前と結婚後と、何か別の自分が二人いるような感じがする。 結婚後の生活を無意識に否定しているのかもしれない。
    よくわからないが、夫婦という性的な関係を自然に受け入れているとき、個人の自意識と何かずれるのではないだろうか。 あるいはもっと広く、普通の生物として、食べて寝て生殖してという生活をこなしているときの意識と、「自分ってなんだろ」と自分のことを考えているときの意識と何か違うからだろうか。 思春期のころ、世の中の大人はみんなせっせと性行為をしているんだと思って、ぐへーっとなった。その気持ちが、すっかり、ぐへーの側になったのに残っているのだろうか。 うん、残っているな。55歳にもなってだよ。 いずれにせよ、心のなかの年齢は止まっている。

    こうやって引用すると当たり前みたいだけど、なんだか「そうなんだよね」とうなづける部分も多々あり、
    「自分」の人生を自分の足で生きてるってこと、決して誰かのせいにしない、ってことを自分もまた噛みしめて前に進もうと思った。

    まあ詳しいことを知りたければ、読んでくださいってことになるんだけどね(大量に引用するだけじゃ能がないからね)。

    でも、しんどい自分も含めてみな自分、と、相田みつを先生のようにつぶやくよりは、SAXをヘロヘロ吹いて「よっしゃあもう一本行っとけやぁ〜」と叫ぶことにしましたけど。

    アートは短い旅だ。シャガールはいいね~。

    • 2013.07.31 Wednesday
    • 06:36
     アートがことさら好きというわけでもないのだけれど、アートは心を旅させてくれるので好きだ。
    実際に、長期休暇も取れないし外国にも行けない自分が、美術館という異空間で一時の旅をして、長い時間をかけて制作され熟成されたアートに出会う、それもひとつの旅なのだろう。

    だけど美術史とか好きなわけではないので、いつまでたっても系統的にではなく、素人的な観方しかできないのではあるけれど。

    いつの日かシャガールが好きになった。

    モネも、ゴッホも、ゴーギャンもいいけど、やっぱりあの色の花束みたいなシャガールが好きだ。
    多分中学校の美術の教科書で見てからこのかた、ずっと打ちのめされ続けているのだろう。
    笑顔と愛と幻想の画家。

    日本には来なかった芸術家。
    100歳近くまで生きて、晩年まで精力的に制作を続けた男。
    旧約聖書のモチーフを好んで描いたユダヤ系ロシア人の男。
    美術の世界では、少し軽んじられて論じたりされる画家。

    そんなシャガール。

    先日本屋で、『芸術新潮』(2013.8、シャガールを巡る旅)がシャガールの特集を組んでいるのを見つけて思わず購入した。
    それによると、シャガールのステンドグラスとか、陶板とか、天井画など、日本未公開のもの中心の展覧会が廻っているらしい。
    幸いにも、冬になると広島県立美術館にやって来るのだそうだ。


    行きたいね~。

    そして冬の広島で、またまた短いトリップをするのだ。


    実はそんな我が家にもシャガールのリトグラフがやってきた。いただいたものだ。

    『エルサレムウインドウ “扉”(ブルー)』
    シャガールのリトグラフは結構チラシなんかに掲載されているので目にすることも多いだろうけど、これもなんか習作という感じのもの。
    シャガールがエルサレム郊外のユダヤ教の教会のために制作した、12枚のステンドグラスの下絵としてのリトグラフシリーズの名品、だそうだ。
    シャガールはこのシリーズでイスラエルの12の部族を描き、その壮大な世界観を見事に表現しています・・と説明文には書かれている。

    目を閉じてもそばに感じられ、蠢いているような芸術作品こそが自分の中に残ってゆくものなのだろう。
    ゴーギャンで言えば、あの大作ではなく、タヒチの闇を描いた商品であったり、
    ゴッホのStarryNightであったり、
    そんな自分は、自転車に乗ってパンクでスリップして天空から落ちるという夢を見たのだけれど、
    その時自分は天上界の人間だったんだろうかとか、それがアートと関係あるのかと聞かれても、すみませんわかりませんと、弱々しく答えるしかないのだった。

    コメント:いつか本場に行きたいね。

    松本零士展at愛媛県立美術館

    • 2013.07.26 Friday
    • 18:39

     愛媛県立美術館で『松本零士展』が開催されている。
    それに付随してコミセンで『講演会』があった。
    実は家人のチケットはヤフオクで手に入れた。
    熊本のコアなファンの人が都合でいけないとのことで、廉価で譲っていただいたものだ。
    深謝。謝謝。ネットさまさま!

    今回は河原学園(愛媛のなんか専門学校)さんが大々的にバックアップしており、若いスーツ姿の学生さんが大挙している。
    なんか学校行事を兼ねているみたいだ。
    あとで分かったけど、マンガクリエーターの学生の作品を松本先生が講評してくれるという贅沢な時間もとられていたのでした。

    松本零士先生は、出身は愛媛県の大洲市で、終戦は大洲で迎えたとのことだ。
    その時のことをつぶさに語ってくださる。
    そして大洲の盆地で、霧が降りた独特の光景は、あの『銀河鉄道999』の風景につながっているのだそうだ。
    全然知らんかったなー。
    あとは、松本零士先生の描く美女のプロトタイプが、シーボルトの娘さんのおいねさん(日本女性初の産婦人科医)の三番目の娘さんである高子さんという方にあったという考証を展開されていたりして、
    なるほど、この女性が、イスカンダルの『スターシャ』になり、『メーテル』になったのかと・・。

    takako

    その足で、県立美術館まで出向いて、人も少ない館内で『松本零士』ワールドを堪能しました。

    そういえば自分の松本先生は、
    『男おいどん』から始まって、『元祖大四畳半』や『セクサロイド』や『ガンフロンティア』、
    『戦場まんがシリーズ』や『コックピット』、途中で『ミライザーバン』なんてえのもあった。
    『999』とかのほうがむしろ後世なのであんまり馴染みはないのだったけど
    猫のミーくんの泣ける話もあったなあ。
    でも、おいどん的要素と無茶苦茶なSF感が両立する『ワダチ』という漫画は今でも好きだなー。
    それに自分の描く、下手くそ似顔絵の中には、松本零士先生が絶対的にいるんだよね。
    松本零士先生、万歳!

    曰く、

    現在75歳で、まだまだ現役で居続けて、最後に、今まで描いた物語を一つにするようなカーテンコールをやりますよ
    でもそれをやったらあいつももう終わりに気づいたのかといわれるのでまだやらないけど。
    後期高齢者と書かれた保険証が送られてきたがあれほど悲しいことはない、元気高齢者とでも変えられんのか?
    私にとっては、おいどんも、ハーロックも、エメラルダスも、メーテルも全部ひとつの物語なんですよ。
    ハーロックもエメラルダスもヒトを殺さない、だからバカスカ殺す今のヤマトは私とは関係ありません!
    夢は人がそれを裏切らない限り消えることはない。
    生きろ、生き抜けというのがメッセージです。
    零士というのは永遠のサムライという意味です。ゼロはぐるぐるまわるでしょ?

    うんぬんかんぬん。

    松本零士節は延々と続くのでした。


    彼女のひとりぐらし

    • 2013.07.13 Saturday
    • 06:43
     玉置勉強先生「彼女のひとりぐらし」-F匹燹

    こっけいで、少し哀しくって、微笑ましい。
    そんな「彼女」のひとりぐらし。

    一人暮らしがしたい。

    誰にも邪魔されずに、
    好きなときに起きて、好きなときにメシ食って、
    原田芳雄さんの映画を飽くことなく観て、
    ギターひいてタクローがなって、
    納豆ご飯死ぬほど食って、
    サックス吹いて、たまった漫画を読む。
    村上春樹先生の本だって「風の歌を聴け」から発表順にじっくり読みなおすぞ!
    酒を飲んで、すぐにロックになって、それでも飲んで、ゲロはいたりする。

    そのうち寂しくなって、誰かさんにメールしたり、
    ひとりごとtweet連発したりする。
    ちくしょおめと、臭い屁をこく。
    いつの間にかヨダレ垂らしてことんと落ちて、けだるい空気の中で覚醒する。
    誰もいない部屋。
    鳴りもしない電話。
    酔生夢死なんてありゃあ嘘だな。

    金子光晴が書いた、
    オットセイの詩を知ってるかい?
    それでもおっとせい。しょせんおっとせい。だからおっとせい。
    声にならない声で猿ぐつわかまされても吠えてるおいらオットセイ。

    だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝礼している奴らの群衆のなかで、
    侮蔑しきったそぶりで、
    ただひとり、
    反対をむいてすましてるやつ。
    おいら。
    おっとせいのきらいなおっとせい。
    だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
    ただ
    「むこうむきになってる
    おっとせい」

    Kindleで読書「なんだかなぁ人生」・・

    • 2013.07.09 Tuesday
    • 15:01
    月とスッポン

     Kindleで往年の大(?)漫画家・柳沢きみお氏のエッセイ「なんだかなぁ人生」を読む。

    日曜日、
    「排泄ケア地区勉強会」を終えて、重信から松山までの帰り道、
    めったにいかないリアル本屋(明家・石井店という大きな店舗)で立ち読みして、
    あのマンガそのものの作者の声が愚痴とも繰り言ともつかず繰り出されているのを、面白げに思ったのだ。

    で、その場でiPhoneで調べるとKindle版があるという。
    帰宅して、溶けたうにのように崩壊した頭で思いついて、購入。
    自分の持っているKindle paperwhiteは白黒端末なので、実に読みやすいんだけど、
    それに、もともと本っておおむね白黒の世界のはずなのに、
    なんか白黒で読んでいると、カラーの映画をわざわざ白黒のTVでみているようなしょぼい感を感じてしまうのは、やはり根が貧乏性に出来ているせいなんだろうか?
    こないだなんか、読み終えてから、わざわざiPadのなかのKindle版の方で、
    「サイボーグ・ブルース」の挿絵を再確認して、「おお、カラーじゃあ」とかなりましたもんね。

    で、くだんの柳沢先生のエッセイだけど、
    まあ好き勝手なことやってきて、60歳過ぎてからのボヤキは、「老い」とか「死」とか、己の「血脈」に言及されたものが多いが、
    なんていうのかなあ、結構今の時代に背中を向けながらも先生決して孤高には生き切れないでいるという・
    まるで先生の漫画の主人公のぼやきとおんなじで、
    面白うてやがて哀しきかな・・なのであった。

    オレがこうやってなんか偉そうにくっちゃべってることだって、犬の遠吠えくらいの響きしかもたず、
    おんなじなのかもしれないよなあ・・

    まあ、歳取るっていうのは、
    他の人に譲れない局面が増し、
    よく言えば確固たる世界が確立され、
    悪く言えば、偏屈なキャラにますます磨きがかかって、そんなものなんかもしれない。
    まあ、ヒトに言われても、ハイハイとか言うときながら、結局そうそう変われるものではありませんね^^;

    はいはいヽ(^o^)丿

    【追記】
    高校生の頃かな、
    先生の「すくらんぶるえっぐ」とか「月とスッポン」とかほんわかラブコメディモノには胸ときめいたなあ。
    あの「月とスッポン」の可愛い女の子、最後にどっか行っちゃうんだったっけ?あれっ、違ったかな??
    いずれにしても、青春は旅立つことなんだよな~
    ってまたなにぼけてんだろーね。
    ダイジョーブかいな。自分。

    コメント:まぁ、先生、そのとおりなんですけど・・なんだかなぁ。

    平井和正「サイボーグ・ブルース」と抜けるような青い空に浮かんだ少女(「IT'S A BEAUTIFUL DAY」)と (上)

    • 2013.07.04 Thursday
    • 07:01

     1960年代。
    フラワーチルドレン。
    ヒッピーたちの夢。
    ベトナム戦争。ナパームの嵐。燃え上がる椰子の木。
    TVで見た映像が悪夢とミックスされて増幅される。
    そんなLove&Peaceは、1980.12.8ジョンの血まみれの丸メガネとともについえたのか。
    あまたのフェスティバル。ぼくのガーデンライフ。
    サーカスナイトは今宵もどこかで開催され、道化師の夢と踊る。
    昔、そういえば、椿神社の入口の古い見世物小屋には、蛇女や、ろくろ首もいた。

    1960年台といえば、遙かなるfar EASTである日本で、モスラの幼虫が東京タワーにまゆを形成した頃のこと、
    僕らガキんちょは、マグマ大使にあこがれて笛を吹き、月光仮面や忍者部隊月光を待っていた。
    息を潜めて、正義のヒーローが漆黒の闇からさっそうと現れるのを待っていたんだ。

    「サイボーグ・ブルース」
    平井和正氏の著作がKindle版でぼちぼちリリースされ始めた
    自分の中の平井和正は、「ウルフ・ガイ」までで、「幻魔大戦」も連載当時は貪るように読んだものだが、幻魔世界の拡散とともに頭から消失してしまった。
    その中で、ちょっと惹かれたのが、「死霊狩り」と「サイボーグ・ブルース」だった。
    後者の方の、同僚の警官に撃たれて死んで、サイボーグ特捜官として再生したアーネスト・ライトという黒人の物語の方を読んだ。
    彼は生きながらにして死んだ男だ。
    生き残ってサイボーグ体に接続された大脳のほぼ1/3だけが残った自分なのだ。
    人間時代につちかった感情は枯渇し、それでも時として蘇りかけた熱い涙はもちろん頬を伝うことなどなく、自分に温かい手を差し伸べたものはすべて押しつぶされる。
    作者の平井和正は、かつて「8マン」というロボット刑事を生み出した。
    そのアニメでは描ききれなかったドグマを、この「サイボーグ・ブルース」という小説に託したのだ。
    でも、結局、世の中から抹殺されてゾンビのように再生された男には、心やすまる場所などこの世のどこにもない。
    それは今の世の中でもしかり。
    だから、8マンは闇の中へ消えてゆくしかなかったのだろう。

    新しく作りなおされたノーラン監督のBATMANドラマ3部作、
    最終を飾る「ダークナイト・ライジング」これはきちんと映画館まで足を運んだ数少ない映画だ!)の最期、
    バットポッドを爆発させて、彼はゴッサムシティの危機を救って、消えていったかと思われた。
    そのバットマンことブルース・ウェインが、最後の最後のシーンでは、素顔で美女(キャット・ウーマン)と避暑地でくつろいでいる。
    ・・でも、これはきっと死んでしまったバットマンの夢なんだと思う。
    闇にしか生きる場所を見いだせなかったバットマンが、死んだあとに見ているここちの良い白日夢なんだ。

    だから、
    「8マン」も「サイボー部捜査官のアーネスト」も、「バットマンの出で立ちをしたウェイン」も、
    みんな闇に宙吊りにされたまま戦い続けるしかないのだと思う。

    (こんな世界で生きながらえて)それでも死なない理由を誰しもが探している。

    コメント:この本読むのって何十年ぶりなんだろう。

    「ノマドワーカーという生き方」立花岳志

    • 2013.06.18 Tuesday
    • 21:56
     これも長らく積まれていた、立花岳志さんの「ノマドワーカーという生き方」をようやく読み終えた。

    kindle本で、小飼弾さんの100円セール2冊を読み終えてから久々のような気がする。
    それらはといえば「弾言 成功する人生とバランスシートの使い方」と「決弾 最適解を見つける思考の技術」の2冊だ。
    横書きで、短い文章からなっているので、kindle入門としてはよかったのかもしれない。
    そんな訳で、まだkindleで長編小説を読むにはいたってはいない・・。

    その小飼弾さんの本に、『何事も徹底的に、寝食をも切り詰めて3日やってみて残るもの、それが自分にとって残るものだ』みたいな一節があって、頷いた。
    そこまでやってみてないよね、普通。
    まあ、不肖・武智にも、そのくらいのスピリットが欲しいところではありますが。

    で、ブロガーとして起業された立花岳志さんである。

    彼のライフログに対する考え方は非常に細かい。
    すべての記録を、iPhoneアプリを駆使して取り、更に凄いのはそれを見直しとして毎日振り返りをおこなう。
    自分で立てた、5ヶ年計画→年間計画→四半期計画→月次計画と降りて行って、日々の振り返りからそれらを逆に修正してまた積み立ててゆくのだ
    自分も(誰しも)、年のはじめにはそんなことを思うものだが、たいていは思うだけで挫折しちゃうもんなあ。

    まあ彼のサイトは「No Second Life」というもので、
    人生は一度だけで二度目はない、だからしっかり生きるよ、という決意に満ちていて、それだけでその意気込みにひれ伏してしまうのだけれど。

    オレだって崖っぷちのNo Second Life、誰しもが一緒なんだけどね、人生といういきわどい崖っぷちにおいては!

    時間を律して、自分を律して、positiveな発信をしてゆく、確かに誰にも一日は24時間と限られている。
    果たして、立花岳志さんの立てた目標は「すべての日本人が誇りを持って元気に生きられるようになるためのサポートを言葉を通して行う」というものだった!

    実は自分も時間の無駄をなくすために、かなり細かくWebで管理できる「Toodledo」で、15分刻みで設定してみたことがある。
    まあ、自分などは、外来診療時間は、診察室の中にはいるけど、あくまで患者さんの時間軸中心の「診察」業務が主体であるので、
    「業務」を細分化したところで突発的なものがなんぼでもその間に降ってきて、意味があまりないのだよね~・・と一ヶ月ほどして気づいて中止した。
    夕方全診療が終わってから、なしくずしのようにcheck入れるのじゃ意味なかったです。
    それからはGoogle Calenderに個人tag作って、それに、おおまかなtaskとかto doを記入する程度にとどめている。

    そんなわけで、彼のようにはとてもできないけど、
    自分で自分の「時間」やら「生活」を律する、そしてその先には自分の描いた確固たるvisionがある、そういう考え方は嫌いではない。
    ねばならない、であらねばならない・・というような教育に我々は長い間縛られすぎていたのかもしれないなと最近思う。
    日本人はこうあらねばならない、紳士たらねばならない、ひとが見ていなくってもこのように振舞わなければならない、などなど。

    それよりも・・したい、を優先させてもいいんじゃないのか?
    そうするためには『ねばならない』にこだわらず、こうするほうがいいんじゃないか、とか、ね。
    とにかくね、他人の目を気にせずに決めるのは、ほかならぬ他人の目にさらされて生きてる自分でしかないのだ。
    いつまでも、おれはあんたらのいい子やらいいなりではないのだよ。
    だって、自分の人生ヒトに決めてもらうわけにはいかんのだよね。
    それでもいいよと思う奴とはオレは袂を分かつよ。
    そのための睡眠記録アプリであり、ライフログなのだ。

    話を立花岳志さんの本に戻す。
    彼が5カ年計画を立てる参考にしたのが、渡邉美樹さんの「人生の6本の柱」だったそうだ。
    「仕事」「家庭」「教養」「財産」「趣味」「健康」。
    そのそれぞれにおいて5年後になっていたい自分を書き込んでいくそうだ。

    医者だから言うのではないけど、なににも変えられないのが健康だと思う。
    健康があってこそ他のものが生きてくるのだと思う。

    そんなわけで、おれも5カ年計画でも立ててみるかな(そう言ってる時点でほぼ立てないことが決定されてる感じですけど^^;)

    さてはて、彼はこれからもブログとネットのon-off(リアル社会でオフ会とか開いてネットのつながりにフィードバックさせるとでも言うのかな)で生きていくのだけど、
    自分にとってじゃあブログがなんなのかというと、飯の種でもヒトを先導するものでもない。
    自分にとってはブログは紛いもなく自分の一部である、それ以上でも以下でもなく、だからそうしんじることができたればこそ、波はあるにせよ粛々と続けてこれたんだと思う。
    hit数が上がればそれは嬉しいけど、
    このブログの中に息づいている自分の断面のひとつひとつが自分にあてた航海図であり、
    それが時に誰かさんの道標とか慰みにでもなってくれたらいいとは思うけど。

    だから、この本は万人の背中を押すものではない。
    ブログで生きていこうと思うのはそんじょそこらの覚悟ではダメなんだなあ、いやはや、という感じで最後の章は読み終えたのだった。

    なんかまとまりがなくなっていく一方なのでこれで終了にするけど、
    こういう本っていうのは、自分と即して、それが反面教師だったり、共感できる部分があったりでいいんじゃいないんだろうかな。

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