スポンサーサイト

  • 2014.04.04 Friday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)

    • 2014.01.24 Friday
    • 22:04
    愛媛新聞に「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)の記事が載っている。

    言わずと知れた、マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーのあの映画だ。
    マリア・シュナイダーがなくなったのもつい最近のような気がしているが、きっと何年か前のことなんだろう。どうしてマリア・シュナイダーのことが好きだったのかわからないが、あの少し東洋的な退廃を秘めた彼女の顔立ちが好きだった。
    でもこの映画を観たのは随分後になってで、彼らの赤裸々なセックスシーンという「ウリモノ」にそんなに興奮したわけではなかった。

    映画音楽は、アルゼンチン生まれのテナーサックス奏者ガトー・バルビエリだそうだ。
    今になってその調べを聴いたら何かを思い出すことができるだろうか?
    失ったしまった愛が目の前に戻ってくるというのだろうか?

    男と女は所詮分かり合えない。
    そんなことは始めっからわかっていながら、お互いを求め合う。
    朝の白茶けた光が、全てを白日の下にさらすとしても、
    最後のタンゴを踊り、お互いの口にワインを注ぎむさぼるように舐め合う。

    奇しくも、先日購入の寺井尚子さんの「セラヴィ」に「ラスト・タンゴ・イン・パリ組曲」もあった。

    あなたは誰と最後のタンゴを踊りたい?
     
     

    「宇宙戦艦ヤマト2199」と田中圭一先生の同人誌「ヤマトの薄い本」!

    • 2014.01.17 Friday
    • 21:18
     「宇宙戦艦ヤマト2199」を見終えた。

    2014年には新作映画も制作されるらしい。

    現実世界では2199年なんてあるのかどうかわからんけど、
    まあ、それはノストラダムスが過ぎた2000年だって同じことだから、置いといて。

    いろいろあった、この何十年の間に。
    ヤマトがらみの裁判も。
    そしてヤマトのプロヂューサーが死んですべての決着がついたのだと想った矢先に、新作が作られたのだった。
    (その間に、見てないけど、あの邦画でしかも実写の「ヤマト」もあったけど・・)

    原作をトレースしながら、原作にリスペクトを払いながら、この「ヤマト2199」は作られたのだと思う。

    松本大先生は、「ヤマトではあんなにヒトが死んじゃかいかんのですよ、だからわしはあのヤマトは知らんのです」と講演会で言われていた。
    でも、「ヤマト」のファンは、やっぱり「松本先生の新作を観たい!」が大半を占めてると思うんですよね。

    だから、田中圭一さんが「ヤマトの薄い本」という同人誌を2冊も出しちゃったってことは、ファンとしては随喜の涙ものなんだよ!
    エロとかギャグとか散りばめられてても、底辺に「松本ヤマト」に対する愛が流れてるんだから!

    ・・てなわけで2冊とも手に入れちゃいましたよ♡

    「ヤマトの薄い本」で検索かけると、中身、結構読めるので、興味のある方はどうぞ!

    yamatousui1
    yamatousui2

    最終回、

    荒廃した地球が見えてきて、
    ひとり、地球と対峙した沖田十三艦長が、
    「地球か…何もかも、みな懐かしい」と呟き、絶命する。
    わかっていてもやっぱり涙ぐんでしまった。

    悪しきものを抱え込んで、もしかしたらダース・ベイダーと化して、
    ガミラスを滅ぼしてもおかしくなかったかもしれないあの男が、
    最期に地球を見て想ったことはなんだったんだろう?
    軍人としての彼の職務は無事全うされたわけだけど、彼個人の「希望」なんてあったんだろうか?

    彼こそが、キャプテン‥ハーロック号のトチローがそうだったように、
    「宇宙戦艦ヤマト」そのものだったのではなかったろうか?

    だから、森雪が蘇ろうが、古代や島が成長しようが、真田さんがたとえサイボーグだったとしても、もうなにも驚くことなんてないのだ。
    全てはあとは予定調和なんだから。

    ここで書くのはどうかとも思ったが書いておく。

    高校の時、オリジナルの「宇宙戦艦ヤマト」の紙芝居を、同級生SFオタクのヤツと一緒に夏休みに作った。
    分担して画用紙に、大きな絵を描いていったんだと思う。
    「文化祭」で反響なんてあったのかどうか、まったく忘れてしまったけど、そいつを処分する時、写真部のOくんに頼んで、写真に収めてもらった。
    それを売りつけようとあこぎな真似をしたのだけど、ほとんど誰も買ってはくれなかった(当たり前だ!)。

    それがなんと、同級生の可愛い女の子が買ってくれることになった。
    天にも昇る気持ちだった。

    そして、その女の子はもうこの世にいない。
    多分40代で、あっちの世界に行ってしまった。

    無論、彼女が高校から後、どんな人生を送ったのかなんて知らない。
    彼女が死ぬ時、なにがその手から、その胸から、こぼれおちていったのかだってわかるはずもない。
    でもあの時の彼女や、テニスコートにいた彼女のことは昨日のように思い出せるんだ。

    なにが言いたいのかわからんけどそういうことなんだよ。

    そして、おれの何回か目の「ヤマト」も、無事にいい着地点につきそうだ。

    「まだ早すぎる死に追悼を」

    009 RE:CYBORG

    • 2014.01.03 Friday
    • 12:12
    009-1

    石ノ森章太郎は「サイボーグ009」の「神との闘い編」を描かずに亡くなった。
    その意志を引き継いで映画と漫画のプロジェクトが進行しているのもなんとなく知っていた。
    その「009 RE:サイボーグ」(2012)の映画の方をやっと観た。
    さて、この闘いが、我らがサイボーグ戦士の帰還なのだと諸手を上げて喜んでいいのかといえば複雑だ。
    ギルモア博士はなんだかアタマの弱いおっさんだし、
    009と002はなんだかしょうもないことで喧嘩別れしちゃってるし、
    フランソワーズはわざわざ挑発的な黒い下着をまとって、島村ジョーに抱きついて長い脚を絡めてチュ〜してるし、
    「バットマン」が孤独な闘い挑んでるのに、お前らはうちわで楽しくやってる場合かよ!って感じなのだ。

    009-2
     
    物語のテンポはいい。
    疾走感も有る。
    石ノ森キャラも21世紀バージョンとして違和感なく再生されている。
     
    しかし最も大切な「神」とは一体何なんだろう?という問い自体がけむにまかれてしまって、安易な結末に走ったのが一番低調な部分だろう。
    石ノ森章太郎氏が、延々と構想していて描くことがかなわなかったのはこの程度の物語だったのか?
    (いやきっと違うと思うよ・・ということはまだ続編があるんだろうかねえ?)

    ダコタハウスの前で、チャップマンという亡霊(彼のことを思うたびにこれは何かの啓示なのだとしか思えない自分がいる・・)に撃たれて死んだジョン・レノン。
    ジョンはかつて、「神とは概念にしか過ぎない」と歌った。
    そんな時代からもう幾星霜も過ぎた。
    宗教はヒトを救いもするが、とんでもない犯罪にまで人々を導いたりもする。
    それを、いずれも、「人間の弱さゆえ」「人間の不完全さゆえ」とひとくくりにしていいものか?

    サイボーグ戦士たちが、世界の中心で、弱い人間(人類)存在を肯定して(否定し得なかったと百歩譲って言ってもいいけど・・)、愛を叫んだら、
    世界はリ:バース(re:birth)されました・・では、あまりにもお粗末すぎやしないか。

    では彼らを、世界を、リ:バースしたのは一体誰なんだ?

    アトムは、ロケットに乗り込み、太陽にぶつかり、自らの死でもって人類を救ったではないか。

    島村ジョー(009)や、他のサイボーグ戦士が集う場所は、実は神の退屈な牢獄だった・・とか言うシニカルなオチで、そこから戦士たちの闘いがリスタートするというのならまだしもね

    やはり石ノ森章太郎の謎を解くには、「キカイダー」をもう一度紐解く必要があるのではないかと自分は考えている。

    これも・・考えているだけで、実行すらしてないんだけど。

    ドクターギルの笛がジローを狂わせる。
    ジローはチェンジする、キカイダーに。
    ジローが悩もうが悩ままいが、人間は白目をひん剥きながら踊り続ける。
    終末のダンスを、狂気の乱舞を。
    そのダンスと乱舞の果てにあるのは、個人なら「死」に違いないのでが、連綿と続く膨れあがったこの地球の行く末は誰も知らない。
    だからキカイダーは、「人間」になり、同胞を抹殺して旅に出たのか?
    天国がないのか?天使が死んだのか?
    いずれにせよ答えは自分の中にしか見いだせないのだけれど。
     
    この映画のビジュアルはうつくしい。

    未来都市TOKYOの摩天楼にダイブするフランソワーズも美しい。
    島村ジョーが、高校の同級生の腕に抱かれて、モノクロの海岸で目覚めるシーンは、自分に、かつての氏のイラスト集「ジュン」をも想起させた。

    偉大な才能だったんだな、石ノ森章太郎。

    009-3

    怪奇大作戦 第4話「深淵を覗く者」

    • 2013.12.01 Sunday
    • 14:02
    SRI1.jpg

     深淵を覗く者は深淵に捕らわれてしまう。

    注釈)
    ニーチェ曰く、
    「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
    おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」というものだそうな。

    浦沢先生の「モンスター」みたいだな。

    怪奇大作戦 第4話「深淵を覗く者」

    今回は牧史郎(上川隆也)が主演でちょっとサイコな味も出してるんだけど、
    やっぱり、「平清盛」のマツケンの横で構えてたあの平盛国にオーバーラップしちゃって思わず笑っちゃいました。
    牧が異常殺人の犯人として勾留されたりすると、清盛、早く助けにこいよな!とかおいら言ってたりするし^^
    「鏡の中の生気のない顔をした自分が見ていると、生きている価値なんてあるのかと思ってしまう・・」とか大芝居だしねー、牧さん。

    最後にその牧さんが、事件現場に群がり携帯やスマホをかざす群衆の中に入ってゆき、
    「おまえだったのか・・」
    というあのラストシーンは70年代風の余韻があって実によかでしたよ。

    EDの「スカボロー・フェア」も実にいい味わいだし。

    所長(原田美枝子)さんの言うように、
    犯罪は時代を投影してるものならば、この時代、もうなにがおこっても仕方ないのかもしれませんね。

    懐かしいショットを!

    SRI2.jpg

    SRI3.jpg

    劇団イリュージョン公演「猟銃」を、萬翠荘で観る。2013/11/02

    • 2013.11.04 Monday
    • 10:11
    ryoujyu

     人間の魂のありかっていうのは一体何処にあるんだろう?
    こんなお芝居を見てると、死んでも魂ってやつは何回も蘇るのかも知らんなあと、いささか無責任だけど思わされる。

    萬翠荘という旧家族の邸宅(正確には、第15代松山藩主にあたる久松定謨伯爵の別邸として建てられ、皇族方のお立ち寄りの館とされていました・・そうな)で、
    地元の「劇団イリュージョン」による朗読劇「猟銃」が上演された。

    仕事を慌ただしく片付けて、主演女優でもあるchihoちゃんのお芝居を観に行ったのだった。

    井上靖原作のこのドラマは、ヘヴィーでシリアスで、
    なんだか救いが何処にあるのかわからなかったけど、
    少人数の観客の前で、いつもと違ったセッティング、シャンデリアの垂れ下がる閉鎖少空間で繰り広げられる朗読劇は、
    その放たれる言葉と芝居に、心をエッジのするどい針で刺され、
    はじめは自分の心の中のあいたであろう小さな針穴だった部分が、
    何度も突かれるうちに広がってゆき、
    やがて修復不能の大きな穴となり、
    やがて心は千々に引き裂かれたのだった。
    その引き裂かれた部分はもちろん今でも穴になっており、当分の間は塞がりそうもない。

    それは歓びとか快感とかいうたぐいのものではないのだが、
    さりとて苦痛ではなく、
    人間存在そのものの在処を思わせるとでも言うのか、
    なんだか自分がここにいることの意味は・・とかそういった類のもので、
    あらがえない「運命」のようなものでもありました。

    たしかに「人間は自分の裡に誰しもが一匹の蛇を飼っている」のだろう。

    うまく表現できずにごめんなさい。

    まあ、心の奥にいつもはあるけど、意識してなかった、そんないろんなことを鷲掴みにされて、ぐっと引きずり出されたってことなのかな。

    帰りの坂道、
    ゆっくり下って歩いてるカップルを追い越した。
    ロングブーツの女の子が彼氏に言ってた。

    「映画行くくらいならみんなこんなお芝居見に来たらいいのにね、よかったよかったよかった、ああ、友だちに教えたい」
    彼氏「・・・」
    「お芝居見てたらマー君の誕生日のこと忘れちゃったよ」
    彼氏「ま、正確には昨日だから・・あはは」(若干焦ってる^^;)
    「ホント、明日も明後日もここでやってるんでしょ、ああじれったい!」
    彼氏「チケットもうないみたいだし・・・・」
    だって。

    帰るとき、入り口でスタンバっていた主要キャストのみなさんのお顔の美しいこと。
    みんなひと仕事終えたあとの徒労感と興奮が表情に現れている。
    でも、さすが役者さん、舞台での顔と素の顔はまったく違う。
    だってみんな普通の女の子だったりするんだもんな。
    主役のchiho嬢も自分の知ってるいつもの彼女で、不倫を生きて最後に毒を飲む「彩子」ではなかったし、
    赤いドレスで、色っぽい太ももを見せてくださった「みどり」役の加藤さんも、はにかんだお嬢さんだった。
    「薔子」役の徳永さんはどこにでもいる普通の女の子だったしね。

    つたない感想になりましたが、ありがとうございました。

    shape of love(The Russia House(1990)) 熱にうなされて

    • 2013.09.20 Friday
    • 18:03
     
    熱が出ている。
    多分風邪なんだと思うが、身体が異様にけだるいので測ってみたら38度を超えていた。
    病院に座薬をとりにゆく。
    入れてもそうけだるさは変わらない。
    なんだかなー。しんどいねー。躰が一枚の粘着性の皮膜で覆われた感じだ。苦しい。動けば動くほど消耗してくそんな感じ。

    ******************

    「それは的確ではないわ」
    それは彼女の口グセのようなものだった。

    「それに、ものは本来あるべき処にはまって本当の安定と意義を見出すものでしょ」
    「そりゃ今の部署は座りが悪いっていうか、たしかに今までの営業と比べるとなんだかカスミ相手に仕事してるようなもんだけど、それをセレクトしてくれたのは部長だし・・」
    「じゃあ言い方を変えるというか視点を変えてみましょうか」
    「今のポジションはあなたには向いていない。そう少なくともあなたは思っている。だから力も入らないし、そのせいかどうかぱっとしない」
    「そこまで言うかね、これぞ的確にって問題ね、はいはい」
    「その先に待っているのが、奈落の滝ではなかったとしても、似たようなものだとしたら、あなたは船をこぐのをやめて支流に逃げ込む?」
    「それとも?」
    「還元するとなんのために生きていて、なんのためにいきてゆくの、って問題なのよ、全ては」
    「いや、この抽象的な表現も的確ではないわ・・」
    酔うまで彼女の抽象的表現はいつも続く。そしてそれは決して悪い気持ちではない。
    でもね・・。
    「だから、だからね、聞いてくれないか、いい加減な気持ちで言ってるんじゃないんだ、部署が変わったからって切り出してるんでもないんだよ、とにかく、とりあえずは愛のために生きていこうと思うんだよ、ほら、これ」
    おずおずと背広のポケットから指輪取り出す。
    彼女は目を丸くして、深い溜息をつく。
    「まったくそれが適格からほど遠いってことなんだわ」
    しばらく下を向いて、意を決したように顔を上げ、テーブルの上の氷の溶けてしまったなんちゃらライムを一気に飲み干す。
    濡れた唇を指で丁寧に拭って、おそるおそるではあるが、おれの肩に手を廻し顔を埋めてくれる。

    その時、突然、流れをまっすぐに進んでゆく壊れかけの筏のイメージが、おれの脳みそにフルHDの画面で出現したのだった。

    ***********

    It is not convenient.
    「ロシア・ハウス」という冷戦時代を描いた映画の中で、ロシア人を演じるミッシェル・ファイファーが何度もそういう。
    1990年の映画。冷戦時代のロシアの軍事機密を巡る英国とロシア科学者の物語だ。
    でも、最期は機密のことよりも、イギリス人中年ジャーナリストのショーン・コネリーと、ロシアの出版社に務めるミッシェル・ファイファーの国境を超えた愛の物語に変わってゆくのだ。

    たしかに、全く便利(コンビニエント)な世の中だ。
    コンピューターでちょっとキーボードいじったら、いらない情報からいる情報から何でも飛び出してくる。
    でも欲しいものなんてありゃしない。
    手に入れたらそれだけで開かれることのない本、一度聴いただけで忘れられたダウンロード・ミュージック。
    愛さえもお随分とお気軽になった気がする。だから誰もそんなものは欲しがらないのだろうか。
    ヘルスの女の子の喉の奥に潜んでいる淋菌だけがホントの「アイ」の意味をご存知なのかもしれないではないか。
    まったくね、まったく、的確ではない、なさすぎる。なにもかも、どれもこれも。

    ショーンコネリーが、厨房で料理をしながらレニングラードの攻防戦の話をしつづけるミッシェル・ファイファーをさえぎって言う。
    「愛してる」
    「本気なの、私には遊んでるゆとりなんてないのよ」
    「正真正銘、これは気高い愛だ、愛してるんだ」
    「たしかに、うちの子供達はみんなあなたに夢中よ」
    「愛してる、君がぼくの国なんだ」
    ロシアと英米のスパイ戦の最中にいる男のこの言葉はカッコ良かったね。

    **********************

    (とりあえず)愛から始めよう、HeHeyHey!(Oh,yeah,make me with love,hit me with love,brothers and sisters.)

    **********************

    ただ叫びながら突っ走る時代は特に終わった。
    そんなものだけではもう誰も評価などしてはくれないよ。去ったものをあるものは「若さ」と呼ぶ。
    その言い方は甘美な響きを内包している。だから昔を振り返る時、どんなやつだって遠い目を一瞬だけでもするだろう?
    でもね、そこから始まってもいいけど、オレはもうそこには還らないよ。
    だからオレはやっぱり確信犯になろうと思う。誰がなんと言おうが。

    コメント:音楽がまたいい!

    『風立ちぬ、いざ、生きめやも』〜宮崎駿 「風立ちぬ」1000日の記録〜

    • 2013.08.30 Friday
    • 12:51
     NHKプロフェッショナル「宮崎駿」〜宮崎駿 「風立ちぬ」1000日の記録〜を見る。
    先日購入した「Cut」9月号の3万時インタビューも読む。
    雑誌じっくり読むなんて久しぶりだねえ。

    「もう残された時間がないんだ・・」
    そう、吐き捨てるように72歳の宮崎駿が絵コンテに向かいながら言う。
    現場では若いスタッフを容赦なく罵倒する。そんなんなら辞めろ!
    3.11の時、3日間の休業を決めたジブリにも怒る、「何やってんだ!」
    おれたちの仕事はここでアニメを作り続けることなんだ、と。

    自分のことだが、50を過ぎてから、ホント残された時間のことを意識するようになった。
    だから、当たり前の顔をして、yesmanを続けるスタッフには時にイライラして怒鳴り散らしたくなる。
    (あたりまえでもないんすよという気持ちも1/3くらいわかるようになったけど)
    時すでに遅しで、おれはおれのやらにゃならんことが山ほどあるから、君たちは君たちで選択するといいよ、という諦念も混じりつつはあるけれど・・。

    まあヒトはそれをキャラと歳のせいにしたがりますけどね・・。

    端的に言うと「うるせえよ、しつけえんだよ、タコ!」ってなもんでしょうかね。

    自分は、この「風が吹きまくって立ちまくる」時代で、
    なおも「生きめやも」といえるのか?
    言えるとしたらどんな答えを導き出すのか?
    そう真顔の宮崎駿さんに言われたら、
    まだ明確な答えを持ち合わせていないので呻吟してんすよ、駿さん」、とか答えるのかもしれないけれど、
    それは宮崎さんとて同じことなのだろう。

    あがき続ける72歳は諦念の72歳より遥かにいい。

    kazetatinu

    雑誌のインタビューよりの抜粋・・

    もう終わりですよ!バカ!
    自分の脳味噌で考えないで、脳みその外側になんかがあると思ってんです。
    そう思いませんか?僕はそう思いますけど。

    でもね、『風立ちぬ』っていうのはどういう風かというのは、原発が爆発したあと、轟々と風が吹いた時に、
    僕は2階で寝転がってて、木がうわーって揺れてるのを見てて思ったんだけど、
    『風立ちぬ』っていうのこういう風なんだ、と思ったんです。

    『風立ちぬ』はさわやかな風が吹いているんじゃないんだっていね。
    轟々と吹くんです、恐ろしい風が。
    だから生きようとしなければならないんだっていうことなんだなあ、と、現実に思い知らされたんですけどね。

    映画を見る前に、友達のFBコメントにもこんなふうに書いてました。

    「半径30メートルか100メートルか。それが自分のできる範囲の限界で、それでいい、と思うしかない。
    以前は世界のためか人類のためか、何かしなきゃいけない、と思っていたが、ずいぶん変わりました。社会主義運動にも興味がなかったわけではありませんが、甘かった。
    かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった。
    他にも色々、判断の間違いがありました。実によく間違える人間だと思います」
    (2013/07/20朝日新聞掲載インタビューより)

    おれもナニカだいそれたことをやれる人間などではありません。ほんのちっぽけな人生です。
    思い上がってなどいないと思っていたが、もしかしたら思い上がっているだけなのかもしれません。
    そんなふうに思ったりもしました。なぜか。
    でも、自分の身の丈に合う範囲でコツコツやって、そこでため息を付いたとしても、前を向くしかないのだと思うよ。いままでだってそうしてきただろ?


    『風立ちぬ、いざ、生きめやも』

    その言葉はやはり清く重い。

    「6days 7nights」(1998)〜Is This LOVE?

    • 2013.08.25 Sunday
    • 13:16
    コメント:雨の日の映画はたまにはこういうのもいい

     久々の雨の日曜日。

    心には色んな物が絡みついたまんまだ。
    溶けて溶かして溶けて溶かして、と呪文のように繰り返すが当然何も起こらない。

    必死でしがみついていないと波に流されてしまう。
    でも、しがみついていても波を見極めなければほんとに流されてしまうだけだ。
    波頭に立てとは言わないけれど、波の行く先をせめて見守る必要はある。

    おれは失念してしまった。
    自分の怠惰故に。

    ハリソン・フォード主演、
    小型チャーター飛行機のパイロットであるハリソンと、女性ファッション雑誌の副編集長が、
    ひょんなことからタヒチの近くの孤島に不時着して・・という、サバイバル(?)コメディ映画、
    「6days 7nights」(1998)をようやく観ることができた。
    なんかいろいろあって、途中までしか観たことがなかったんだよね。

    愛の始まりはいい。
    すべてがLOVEだから。
    エンディングにボブ・マーレーの「IS THIS LOVE?」がちょろっとだけどインサートされるのもいい。
    でもEnding、この愛は決して成就しないだろうなと思わされるのだが、そんなことは知ったこっちゃないよなのがアメリカ映画だ。

    映画の終わり、
    「あなたはやっぱり気楽に生きていたいのよね」と彼女に問われ、
    「でもね、気楽ばっかりもどうかと思うんだ」とフォードが答える。
    彼女についてNYに出てゆこうっていうのかい、おいおい。あんた。本気かい?

    責任は回避できない。
    物事の重圧は日々おれの首を絞める。
    逃げ出したい。この暮らしから。
    たぶんね、おれの尺をもう外れてるんだよ、今のこの暮らしは。
    だからもうちょっと身の丈にあった暮らしがしたいね。いつもないものねだりの軟弱なおれです。

    軽々やってるじゃないっすか、と、皆がおれに言う。
    そのとおり、綱渡りだけどね。
    でもその綱は風に揺れ、長い年月でほころびかけて、それをだましだましわたってる、そう人生そのものみたいに。

    フォードの言うセリフの意味もちょっとは分かる。
    いつまでも、このままじゃダメだと思いながらも生き、自分の心に火をつけてくれるものを共に燃え上がりたいと思う。
    でもね、それはけっして「お気楽」な暮らしの中には見当たらないんだ。

    わかってる。

    そんな思いも夏のうだるような暑さはなし崩しに溶かしてしまい、
    路上で溶けたまま放置されたアイスクリームには蟻の列が黒い流れを作っている。

    雨は哀しみを洗い流すのではなく、ヒトの思いそのものを流して去っていっただけのかもしれない。

    流れてゆけないおれはここに沈殿して、うずくまったまま溶けたアイスクリームを眺めているだけだ。

    IS THAT ANOTHER LOVE,YA?

     

    日本語で歌われている方もいて感動! 

    『冒険者たち』(1967)は永遠を描いた映画だった。

    • 2013.07.29 Monday
    • 18:14
    冒険者たち

     あいかわらず迷走中なのである。

    自分のポジションというものが定まらず、あっち行ってはションベンかけ、こっち行ってはうんこしてみたいな感じがこのところ続いている。
    本業はあいかわらず忙しく、それはそれで結構なことなんだけど、オレはこうやって一生を終えるのかなーという危惧はいつも胸のどこかにある。
    それは誰しもが然りなんだけど・・。

    『新・午前十時の映画祭』といって、名画をデジタルでスクリーンでよみがえらせるという好企画がある
    2週間のサイクルでいろんな名画が上映されている。
    うわぁこれも観たいあれも観たいなんだけど、なかなか腰が重たいといいますか、
    新作映画にも行けてない状況でどうやって古いのまで、家にも撮りためた番組あるでしょ、
    で、こっちもがんじがらめなんだけど、
    そんな中でもこれはスクリーンでどうしても観たいという映画で、家人に連れて行ってもらう。

    男二人に女の子一人が絡むという、永遠のテーマを内包したフランス映画の傑作『冒険者たち』(1967)である。
    自宅で何度もDVDで観た作品だ。
    でもやっぱり映画館、それもデジタルリマスターは格別だった。
    ああ何度見てもジョアンナ・シムカスいいわ♡
    若き日のアラン・ドロンは完璧だし、リノ・バンチュラの渋いこと!

    そして、そういった映画にはやっぱりすべからく死がつきものなのである。

    ランボーの詩に、
    『何を見た、永遠を・・』みたいなのがあったけど、
    この映画は『刹那』でありながら、『永遠』を描き出した奇跡の映画だ。
    だから、リノ・バンチュラがその後どうなったかなんて憶測するのは野暮ってもんだよね!
    わんわん。

    平井和正調に書くと、

    オレは悶え、苦しみ、咆哮し、そして彼女の死をもって、ようやく再生したのだった。
    いや本当だろうか、
    目が覚めてみたら、全部夢で、オレはあの風吹きすさぶ掘っ立て小屋で毛布にくるまっているだけなのかもしれないではないか。
    でも、たしかに、そこに彼女のぬくもりはあったのだ。
    それを感じることができる限り生きてゆける。
    オレは再生し、深々と息をすった。
    そう、案ずることなど何一つない、オレは月齢13日目の狼男なのだから。

    あれあれ、話がずれてきましたんで、こんなところで。

    男はね(人間は、と、置き換えてもいいけど)、非現実的な夢を心の奥底に飼っていかんと生きてゆけんのよね〜

    特撮博物館

    • 2013.06.11 Tuesday
    • 13:58
    tokusatsu

     愛媛県立美術館に遅まきながら、「特撮博物館」、行って来ました。

    雨なのに大勢の人、でも会場にいる子供のほうが途中からダレダレ。
    ありゃあ、我々世代には血沸き肉踊るけど、いまのガキどもにとっては、あんまりインパクトないのかもね。

    庵野さんと樋口監督の「巨神兵、東京に現る」、
    たったの10分なのにすごいインパクト!
    それもCG一切使用してないなんて!
    ナレーションはちょっと余計で過剰すぎたかもね。
    巨神兵の圧倒の前に理屈は排除されるべきだったかもしれない。

    会場まわってて、
    「「日本沈没」の田所博士、ほらお父さんの時代の映画のほうでは、ほら、あの人・・」と詰まっていると、
    隣から、いかにもオタッキーなあんちゃんが、
    ぼそっと誰にともなく「小林桂樹です」と教えてくださる。
    彼にはまた別のパネルの前で、「電人ザボーガー」とか「シルバー仮面」のうんちくも教えていただいた。
    語り出したら止まらない感じ。
    いやあ、おれらみたいな素人でもこんなに興奮するんだから、彼にとっては悦楽だろうね。
    オタクバンザイ!

    巨神兵のフィギュアと、ウルトラ手拭いゲットして、会場を出るともう6時前。
    おもしろかった〜。

    キングギドラはやっぱり破壊神No1だわ、ヤマタノオロチが天から降ってきた感じそのもんだ!


    PR

    calendar

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31      
    << March 2024 >>

    ブクログ

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    recent trackback

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM